「適正な価値」や「答え」が知りたい時にふと思う。


答えが欲しい時、また解らない時ほど、過去の「失敗」や「過ち」、得てきた答えから探しだそうと考えるが。

常に現状を少しでも良くしたいと思う時、まず何から少しでもヒントを得ようとするだろうか?


「真の答え」こそ丁寧に、自身の感情に従って扱ってきた経験・反応、「答えの積み重ね」の先にあるのだろう。


それは1つの答えの為に思い悩むより、1つの答えの為に丁寧に時列に「答えを積み重ねる」ことなのだろう。


特に、本来心が常に期待するものが良いとされるが、実際には、「真の答え」ほど「心臓」の動きに注意するほど、丁寧な反応が得られるとされている。
感情だけが、自分の答えじゃない時もあるだけに、身体の特に「心臓」の動きや、「呼吸」までもその考えている思考に反応するからなのだ。


何故ならなら、スポーツ選手を2組に分け、ある実験した結果、一方の選手には、ポジティブな言葉を使いスポーツをしてもらい、もう一方ではネガティブな言葉を使いスポーツした結果、凄い事にネガティブな言葉を使用した選手の筋肉量が著しく低下する実験結果もあるくらいなのだ。

精神衛生面を考える上でまず基本な考えとして「生きる上で必要なエビデンスなのだろう。」


自分の意識に従う先には、心だけではなく身体の状態も労って上げれる方が、更なる洗練された領域に進むとされている。


例えば悩みとは、外部から来るものに反応するものであれば、耳や頭に受け入れる「言葉」とは分別したいものだ。
何故なら「失敗」と思い込んだものほど、余計な考えが増え、ネガティブに捉えられ、足かせとなりやすい「言葉」だけに「真の答え」の為に必要な「言葉」の受け入れ方として、人生において「失敗」と言う認識ではなく「軌道修正」を施していると思えば更によいのだろう。

身心をコントロールする言葉を常に変換し続ける事がベースになるのだ。


「軌道修正」の積み重ねは、「真の答え」の積み重ねとなるのだ。


世の中を、単に苦行と捉えるのか、また楽行捉えるかは、気持ち1つなのだろう。忖度を抱く気持ちより素直な気持ちが何十倍にも幸せが倍になって帰ってくるのだろう。


何が起きても、ブレない気持ちがどうであるか? 常に「思い」と「身体」の調子が連携している、「言葉」が”かすがい”となり、思考を引き上げることも引き下げること可能になってしまうのだろう。


人生においても、最も知る価値があるのだろう。


自身の現在におけるお金や物すべてが無くなったとして、自身の「真の価値」を誉め称えれるだろうか?

表面的な「カテゴリー」を全てが無い状態なのだ。常に裸の価値を褒め讃えれるだろうか?そしてその物差しはどうだろうか?

その状態を俯瞰し、何もない状態を常に考え、存在だけが価値なのだ。 

「表面カテゴリー」からの幸せ以上に、土台見据えた幸せを作れるだろうか?

断捨離の先には、調和とあるが外部の環境から内部へ向け初めて自分と向き合うことが出来るのだろう。そして初めてその新たな思考や空間に、新たな幸福が常に舞い込むこと。真理の原則なのだろう。


自己愛とは、「真の姿」に、褒め称え上げる価値なのだろう。

自己愛を磨き、溢れる愛が他者へこぼれる。幸せは幸せな人からもらえれるのだろう。

幸せを与える事も、また貰える事も常に、自身の土台となる自己愛に気づけることは、自身の「真の価値」を知っていることなのだろう。


そうでなければ「客観的価値」にほんろうされ、本来の「真価値」を知らないでいる事になるのだろう。

他人に決められた価値・存在から幸せを他人にあげれるだろうか?また幸せな人が幸せを与えられているのに、幸せが何か解らない事に繋がるのだろう。

いつも「幸せ」は「幸せに繋がっていくこと」 幸福の女神はいつも楽しむ事で忙しのだろう。


ありのままの気持ちとは、気持ちだけでなく身体の状態、「心臓」や「呼吸」などがどうなのか意識的して考えることが良いとされているだけに、身体は、人生において唯一無二の存在とすれば、「真の友情は健康のようなもので、その価値は失って初めて解る」ともある。

身体の大切さも常に考えながら、物事を考えることでより自分が洗練されるとあるのだ。


また「客観的価値」が今現在あるかどうかを知ることが大事とされる。
FXや株など、客観的価値」は、期待値や情報、周りの影響により、本来の「値段」より遥かに違った値段になることがある。「客観的価値」に振り回されると本来の価値が解らなくなり、幸せとなる価値も過ぎ去るのだろう。

「客観的価値」とは必ず変動するのだ。幸せと同様に過ぎ去ること。

それは結局「真の価値」に戻るだけ。

“ありのまま”の状態なのだ。

それでいて「客観的価値でいれば良いのか?」「真の価値でいれば良いのか?」何故なら何事も、「真の価値」から始まっているからなのだ。


全てにおいて、人生の「課題(真の価値)」に気付き、「答えの積み重ね」が出来れば出来るほど、更なる求める「答え(真の価値)」が見えくるのだろう。

更に何事も「待つ」ことが出来るのだ。


要は、不要な「不安」「心配」の「積み重ね」に思考に時間をさくのではなく。

「客観的価値」を丁寧に選り分け、知ることで、常に「真の答え(課題)」をクリアしていける答えが見つかるのだろう。


なぜこだわるのか。何故ここまで考えるのか。表面カテゴリーの為でもなく。
人生は永遠ではない事なのだ、命が永遠と続く物語の中で考えていればどうだろうか。そもそも限られた中で、出来る事も限られているのだ。


よって本当に「真に答え」が欲しい時ほど、同じパターンやループから抜け出せないほど、過去から事例に行ってきた、「お答えの積み重ね」を知り。

更に、「感情」と、何より「心臓」「呼吸」まで、より丁寧に慎重に感じ取り、考えるだけの価値があるのだろう。


それを焦る事もなく。後は投げ掛けた答えの為に「待つ」だけなのだ。


“「答え」が来ているのか?””「答え」が来ていないのか?”


ただ投げ掛けた「答え(課題)」の為に、「待ち」続けるだけなのだ。


実に、「客観的価値」を選り分けることによって、本来意識している物事の情報も手に入りやすいのだろう。
慎重に、より「ゆっくり丁寧」に、感情を拾っていければ今欲しい「答え」に少しでも近づけれるのだろう。


為替の知識と共通するが、それ以上に一度の人生の為になる所が沢山あるから、やはりおもしろいとふと思えるのだ。

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