「影響」と「進化」についてふと思う。

過去2020年4月17日に書き留めていた、記事をピックアップしています。

国が「影響」していることは、環境へ「影響」されていく。

環境が「影響」されていると、十人十色で個人まで「影響」されるフラクタルに思考や言動に影響を及ぼす。


影響によってもたらされる「変化」「移り替わり」を目の当たりしていると、「影響」される時間によってアフターコロナの世界は、世界にとっても大きく進化するのだろうと思ってしまう。


望んだ訳でもなく、また選べずに起こった出来事の影響は、選択の意図が無ければ無いほど、その影響や人生にもたらされる意味も大きいのだろう。

例えば「選べない教育」を受ければ、臨んだ成績では無かったかと思える事もあるように、先生や人や環境を変えるだけで、大きく成績が変わる事だとしみじみと思える節があるのだろう。

「選べない」フラストレーションがもたらす「影響」とは、責任を他者のせいにする思考を生むからであるとされる。

アスリートやスポーツ選手ほど、指導者をこれでもかと変えることは、選り取りする根底に多大なる価値があるからなのだろう。

「選べる価値」がもたらす「影響」、「選べない価値」がもたらす「影響」と「2つ影響」が混じわる先にある「自分」を考えられるだろうか?

学びは与えられたもの、古来よりあるもの、良書や偉大な歴史からそっくり学ぶ以上に「何を自から考え出せる」かと言うことなのだろう。

「影響」を持ってしてどうするか? 学びを持ってしてどうするか? 学び以上応用を効かせた考えに落とし込めるだろうか?

出来事や英知と出会えることは、”定められた出来事”としてまた自身に「影響」を与えてもらえる人生の原石なのだろう。加工に至れる思考はいつも正しく機能しているだろうかといつも思考を巡らせるのだ。

また生きていると感じ取れることは、「歳月が与える影響」を通じて著しく思えるのである。

それまでの日本は、平清盛や源頼朝が活躍した平安時代の後期から数えると700年以上の歳月を「武士の世」が続いていたのだ。

江戸幕府は260年の繁栄を終え「武士の世」の終息から明治時代に「進化」させる歳月は、700年間

この歳月をわずか「ペリー来航」(1853年)から「大政奉還」(1867年)までは、たった「15年間」

たった「15年間」の出来事と思えば非常に凄く短期的に、精神性や物質的に「進化」を遂げれたこと。

このように何百年の年月を「進化」させる出来事には、何があるのだろうか?

「選べる者」と「選べない者」がいたのだろう。フラストレーションが戦となり時代を塗り替えて来たことは日本史の事実であり、いつの時代背景にも変化変容を望む者と、望まない者が切磋琢磨を遂げる。

ただただ「選べずにフラストレーションに陥るのか?」または「選ぶ為に自分が居るのか?」


そう思うと今生きている2020年から同じ「15年間」と言う期間を仮に設けた時、2035年までと言う歳月がもたらされる影響は、ただ途端に「進化」が訪れるのではなく、定まっていない期間として自身に「影響」をもたらされるのか?

または定められた「影響」を与えてもらう期間なのか? どうだろうか? 規模は階層的に様々に考えられるのだろうが。

何事も「進化」や「結果」から推測すのではなく、「進化」に必要な「進歩」を選り取りしなくてはいけないのだろう。

そう誰のせいでもなく、与えれた自身の人生が幸せになる為の責任なのだろう。そこの他人に責任はないのだろう。


例えば今現在理髪店で外科医の手術を行えば異常な話だと思うことだろう?

それは違法だ!ダメだ!権利が!と思うが、それでも本来昔は、理髪店が外科医の手術を行っていたことなのだ。

”時列で見ると 「髪結い」→「外科医(理髪店)」→「理髪店」否定的な出来の期間として、「考えられない事」「今決めつけている事」ほど 背景には「進化」の過程において思いもしれない複雑な「進歩」の過程が歴史の背景にいつもあると言うことなのだ。”

クロスワード以上に、歴史から生きる学びとして学べることは沢山いつも観え隠れしていると言うことなのだ。

最初は非難と誹謗中傷の嵐だろう、昔で言えば死者も数知れづ出たのだろう。「進歩」を選ぶとはいつの時代もこのような観えない壁を設けらる「側面」に観え隠れしていると言うことなのだ。


更に精神病患者は、精神病院で診断される事が望ましく、現代では当たり前だと思うが、昔は「山伏」の祈祷を行うことが当たり前とされていた話であり、明治で言えば、髪型や服装、団子屋から喫茶へ進化してきているのである。

現代人のような装いになるまで、余儀なく与えられた環境では、着物で洋靴を履いているモダンな感じを楽しめていたかどうか?

または断固して拒否し続けていた?人もいたのだろう。ただ選べない与えれた世界を嘆いてないか?

それとも「嘆かれる自分」を創出出来るだろうか?

「進歩」と言う選べる環境を選び自ら自身に「影響」をもたらしているだろうか?

いつの世も多くの「進化」となる前には、不快や理不尽な出来事、または物質的葛藤と精神的葛藤があったと思うとこと。観ている世界が、同じ時間列を生きていても違う世界を自から選び観れると言うことなのだろう。

その中に多くの複雑な相違の中に「進歩」がもたらされて来たと言うことをいつもスキルとして身につけれるのだろう。

その時代の人たちの心まで、どうであったかわからないが、移り替わりと共に残るものと消えていくものが必ずと言って良いほど沢山あったのであろうと言える。

願望や企みと言う思考が渦巻く中、あなたは「何をもってして自分に影響をあたえれるだろうか?」

今回のコロナの影響によって「与えられる進化」として、この先に臨む形態があるのであれば、明治以降、本来常に変化を遂げてきた日本人である以上に「和魂洋才」が柔軟に発揮されるかどうか期待したいとこなのだろう。

昨今渦巻く中では反対は必ず表裏一体必ず作用すること、そんな中「あなたは自分に何を選んでいますか?」


例えば緊急事態に置いて、学級でマスクの色を指定、指摘している学校があったと言うのだ。

日本の教育に余程のエビデンスをもってして取り組んでいるのでしょうか「こうでなければならない」と言う過程において、日本はまだまだストレッチする必要があるのだと思えるこの頃ですが…無条件に与えられる期間の質や責任とは、どれほどのエビデンスをもってして今日私たちの精神や人生に幸せをもたらしたのだろうか?

悲劇をみをもって知り、茶番を持ってして振り返り、悲しみを塗り替える日々であってはならないのだろう。

否定と肯定の二択に分けることだけが、「進化の歩」でないこと。いつの世も偏った歩は滅びの一歩なのだろう。否定の中に学びがあり、肯定の中に学びがある様に螺旋階段のように「進歩」と言う歩が繰り返されてきたと言う原理原則なのだろう。偏った留まりとは一時の優位性として、大きな歪を生みながらまた螺旋上の一部となっていくのだろう。

それでいて普遍的な理不尽な出来事とは、先ほどお話した様に「成長過程として」着実に「進歩」を踏み進んでいると言うことなのだろう。

否定的な中に、欲しいものがいつもある。人の心とは裏腹と言ったように、無い者から学べる事とはまさにその言葉の通りなのだろう。一枚壁の「側面」からもたらされる事とは、どれほどの不幸せを生んでいるのだと思えるのだ。

コロナの影響がもたらす歳月「時間」によっては、アフターコロナの世界は、ここまで突き上げてきた物質的な価値観以上に、気づかされる「影響」よって「進化」を遂げるのではなく、ひとまず日本にとって必要な「進歩」の在り方と出会える出来事であると言うことなのだろう。

自ら「選べば」幸せと思える「影響」が沢山ある事を、改めてふと思うのである。

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