「自身の糧になるものを観つける」ことについてふと思う。

投資の「手法」を考えていると、無限の可能性がある世界だけに、実際に80億通りもあるとされている。
そこにはルールもなければそのリスク管理すら全て自由意思の元、根本に全て自分に後悔がないように考えなくてはならない。

考える事は実に面白い。

自分事だが0から1を創造する事がとてもおもしろい。
また表現する事が何よりの喜びであり仕事の根底にあり、新たな世界を創造し共有していく場所やアイディアを提供していく事が本望なのだ。

そこにはアイデアとして「糧となる材料」が大切なのだが、「糧」をどう創作するかなのだ。

アイデアだけ考えてても、仕方ないのだろう。
税理士や司法書士や弁護士などなど、どこの分野もその道のプロがいるだけに、ありとあやゆる「方法」を持っている。

どんなオリジナルを発案する方法なのか。

例えば日常的でも冷蔵庫の食材だけで
創造と妄想の創作となれば、発想は宇宙料理なのだろう。


どことなく「思いつき」が気転となるだけに、日頃どことなく、脳内に仕入れられた材料だけで発案できているのか?
いつも思いつきと閃きが良くあるだけに不思議になるときがある。

何事もレシピに囚われず、自由意思で好きに美味しいものを楽しく頂ける楽しみと満足感がある。

でもそこにあるスペシャルな方法は、

“限られ与えられたものをじっくりみる。”と言うだけなのである。

いつも何も望んでないのだろうとふと思えるのだ。
限られた世界以上に、望んでも手入らないものを追いかけ、揃うのを待つこはない性分なのだが。

今現在にあるものとは、それなりに限られた理由があるのだろうといつもじっくり眺めながら考えるのだ。脇見よそ見はしないのだ。

目の当たりする売上や収益率を考える場合も、今目の前にしかない材料としてどう料理するのか?
とことん調理方法(思考)を考えるのだ。

結局、今あるものも美味しく出来てないなとふと思い返される。試行錯誤が必要なのだろう。苦く酸っぱくと味わえるこれは言わば旨味なのだろう。

そうなれば開いたら冷蔵庫の中なのだろう。じっくり眺める世界はどうなのか。
「見方しだい。フォーカスを変える。」さらに「絞る。広げる。見つめる。」そこにセオリーは存在しない「自由な心のままに」その意識に集中する事がたまらないのだろう。

前提に、個人に置いては観えてくる器用・不器用や今出来ること、今後も出来ない事がはっきり勿論誰でもあるとすれば、決して「上限」は置く事も無く、何事もにも「線引き」はしないのだ。


目の前の現実と考え抜いた結果は時に、リンクしない結果を現実として用意してくれるからなのだ。
未完結として保留・保存もあれば後々アイデアに満ちるものもあるからなのだ。

“「数字」や「得になるもの」以上に、こ言う素材や材料とは”自身の「糧となるもの」として人生に気転をもたらしてくれるのだ。

自身も昔からあれもこれもと冷蔵庫の中のように、的も決めず手探りに探しては、「あれも無い」「これも無い」と嘆き、本来目の前のこと以上に求め、「大切なことを見失う」ような事をよく体験したからなのだろう。

これはいわゆる世間体ではもはや「”短所”」なのだろうか。

地方や海外へ出向き外国の人や地位ある人と接した所で思った事は、
「どこまで行っても新しい自分はいなかったが、わかったのは、どこに行っても変わらない自分がついてくるということ。」なのだ。
目の前の事として、自分に与えられた事をじっくり見つめどうするか。

脳とは、実に進化の過程において、悩み過ぎないようにも出来ているとされ、悩みとなる種は考え過ぎないように日々自動的に短絡的に処理し負担を改善してくれているとされる。

それゆえ本来長所であるものも「短所」として見落としてしまっているのだ。悩み過ぎると良いものも見落としがちになると言うことなのだ。
「あれもこれも」と求めだすと作動するのだろう。

本来その場にあるものを良く見れるものなら全て良く思い描いた通りに考えたいものなのだろう。
それでいても誰もが共通する、ものの見方としてこの自衛してしまうフォーカスの中にヒントがあるとされている。

1.一部分だけを見る 。
2.違いだけを見る。
3.過去とつなげて見る 。
4 境界線を引いて見る。
と誰もが脳の癖だと思える思考なのだが、人間誰しも自衛フォーカスとして働いてしまうだけに「短所」としいることがあるのではとされている。

こうした「自衛された生理的な現象」材料も、スキルとして多様性とマルチタスクから本来の仕事の底上げに非常に繋がっていると言う見方もあるのだろう。

“それは日頃悩み、人生を困らせているもの、材料として「短所」をかき集める方法なのだ” 

どうであっても「味からこぼれる錆び」は、
どこの誰でもある事が平常時なら、もはや身からこぼれる「好材料」なのだろう。

自身が何故色んな業種やジャンルにこだわりなく接しれるのかとかふと思うと、いつも思うが「何も知らない」「出来ない」だけが「井の中の蛙」だと思いがちだが、
また先だって前に進む過程においても、またその場所も「井の中の蛙」になりやすいのだろうといつも思えるからなのだ。
そう留まる事に価値が無く、留まる事以上にジャンルを超えたアウトサイダーなのだと思うのだ。

“生まれて来てまず与えられている「短所」すら使わずして、おもしろい人生になるはずがないと思えるのだ。”
それこそ、限られたものに意味があるのだろうと思えるのだ。
じっと与えれたものを眺めるだけで、後は人生がいつも良くも悪くも用意してくれるからなのだろう。

例え自分のテリトリー以上に活動していると、他分野や本来の仕事以上に他のスキルを知る事で、自分の出来ない知識や知恵があるのだろうと思うとひしひしと痛感する時もある。
違いを知る事が成長痛として他の仕事から自分の「糧」となるものが沢山あると言うことなのだ。価値観の成長なのだろう。そして物差しが成長するとまた新たな成長痛を探して旅をするのだろう。

色んな分野の人と基本関わる事が若い時から好んで生きてきたが、人から聞ける話は、まさに生きる辞書なのだろう。

セオリー以外全否定される事や、ジャンルに限られた世界観や世間体から線引きされるている「個性と言う短所」も、好材料と言うことなのだ。
「短所も長所」として自身の「糧」に変えてしまえる調理方法(思考)と出会える事をまた楽しみにするのだろう。

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