「満足する目線」についてふと思う。


為替などをしていると、各ポイントごとに、優位性の有る所と無い所がもちろん存在する。

その中からいつも自分だけの「目線」でトレードをしていると、負けても勝っても毎回同じ「目線」で物事を見ている事に気づくのだ。

それは、本来は私生活の中でも、自身の優位性の為に全てセレクトしているはずなのに、毎日の変化に乏しい「目線」になってしまっていると言うこと。

それはいつのまにか「満足いく目線」になっている事に気づくのだ。これが満足のいく現状と言う結果と認識してしまうこと。 気にもせずに、自分だけのコンフォートが出来ていると、良くも悪くも何故が満足いくものがあるのだろう。 

仕事をしていても、始めた頃の「目線」と「手慣れて来た頃の目線」と「慣れて来た頃の目線」では、見据えている楽しみすら変わって来た事を時列に管理しているだろうか?


同じ仕事の条件下でも、「満足する目線」が違ってくることを丁寧取り扱う、まさに自己愛と言って良いほどに。


事実自己の思考や行動の原動力には、自分はこうあって欲しいと思う「目線」が、その対象物のどこを見ているかで、その「満足する目線」つまり「優位性」が変わってくると言うことなのだ。


その中でも「先見性」とは、先を見据えた目線であり、こうなって欲しい根拠がちゃんとある所にフォーカスしていること。
こうなって欲しい時ほど、日頃からどこに「目線」を向けているのかで、「養ってくる目線」が変わってくるのだろう。

満足の着地点がそれぞれあるの様に、その人それぞれの目線の満足を知ることも、また肥やしになると言うことなのだ。

目線が違うから動きが違うのだ。同じものは存在しない。当然のようで当然でない。


今、沢山の成果や結果を残している人に会うと、現状に浸ることのない「目線を養える」、しっかりこうなって欲しい根拠が未来に見えていると思わさせれるのだ。

「人を生かす目線」として、人をみる「目線」とは、実にこの国には沢山の「目線」が存在するのだろう。
日本には、「5眼」と言う、「人を観る眼」を表す言葉として存在するだけに、必要な「目線」を養っていける糧を、本来は求め培わなければならないのだろう。

目線が違うから動きが違うのだ。養なえたフラットな目線がある職場なら風通しが良いことが簡単に想像が出来るように。

目線が上からや、下からの目線を気にしなくてはならなければ、それはストレスを感じる事は当然なのだろうと想像が出来るものなのだろう。

目線を知ることで見えてくるものがあるはずなのだ。また「目線を改善」する事で改善されていくものもあるのだ。


また、その逆に人を陥れる目線も存在すること。「邪見」なのだろう。

因果の道理を無視する「間違った目線」として、人には人の道がある中でこのような「目線」とは、どのようなものだろうか?

いく通り正解がある中から、邪見とは「因果」を無視する目線として、要は「原因と結果」の事なのだろう。この目線に晒されれば、原因も知らず、結果も知らずの迷い道になりえる目線と言うことなのだ。

特定の目線に振り回されるそんな事が生じる事は、何も見定まっていない迷った目線なのだろう。

生きる道に迷った目線と言うこと。

先に話した通り、「目線」を持ってして養える事は、人生の糧となり身になる事を紹介したが、その未来永劫の道から外れた「目線」と言うことなのだ。

こうなって欲しい原因すら解らず、こうなってしまった結果にも目もくれずの「目線」と言うこと。
「目線」がない者がいると思うと、自身がなっても困ることだろうし、相手がそうであってもまた困る原因なのだろう。


物事を、しっかり観えていればどうなっても、先だって安心してその物事を見届けれる事も出来る事が前提ならば。「本質と裏面まで見据えた目線」であれば尚良しとする話の中で、何が起きても本線も見ているが、脇道も見れるそんな余裕が出来る「目線」でありたいものなのだろう。

仕事やプライベートでも有意義に他者に求められる事も、または自身の為に養う事も。全てその物事をどのように見えているか問われている事が、この世の中で生きている大々的な能力と言うことなのだろう。

「目」の神秘性や「目」を通じた逸話など、「目の持った力」が沢山ある歴史の中で、人であり人に備わった能力の底上げに目を向ける日がこの国でも行われる事を願うのだろう。


また為替では、表面だけ見ててもまず楽しくならない。

見えてくる世界が実際に同じスクリーンの中に何枚も存在し、見えてくる楽しみが沢山存在する。

沢山見えてくると、何事も「優位性」が出来てくるのだろう。楽しむ事もできるし、アイディアも沢山浮かぶなど、前向きにもいつでもなれる「目線」として持っておきたいものだ。


どうであれ、自分だけの「満足いく目線」で有ることは、その物事の表面だけを見る楽しみ以上に、更なる楽しみになれば、更に「満足いく目線」として保有されていく思考の楽しみとなるのだろう。

「目を肥やす」とは実に理にかなっているのだろう。
目線は、縛られた事もなく、図式にあてはめられる事もなく、自ずから選んだに過ぎない「目線」がこの世の全てを見通すことができる。オリジナルの世界に生きれるツールなのだ。

囚われることなく、生まれた時からすでに自由である「目線」なのだ。

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