「大人の品性」についてふと思う。

大人ぶる子供は可愛く思えるものだが、自分も含め大人になるまでに、大人の概念や大人とは?について習得する機会があっただろうか?


辞書では、目先の事だけに感情的に反応したり単細胞的に反応したりせず、長期的に大局的に事を見失わず理性的に判断が出来る状態とあり、子供は、大人に尻拭いしてもらうことから「責任」がない状態を言う、つまり大人は、「自立」と「自律」の両方から「責任」を問われるってことだと思う。


大人になるにつれて、世間の規律や常識や因習を用いて生きるが、心の奥底から忠誠心を掲げ、このような「型」で生きるているとは思えない、豊かさに寄与する為の基盤に過ぎないのだろう。


最近「好き勝手話す=大人ではない=子供だ!」と気に掛ける言葉を耳にした。

「型」が個人単位の自律まで犯すものであれば、大人の自由とはなんだろうか?
自由こそ持って生まれた時から個人に与えられた自律の一部であり、「尊く」しのぐべき与えられた権限であり、創造、発想、言葉まで自由に使えこなせる表現方法なんだろう。どこまでもだ。


この好き勝手話すこと=子供だ!制限かける制限の意味は、誰の為の忖度なのか? と考えるのだ。

空気を読みしのぐほど尊くあおぐものがあれば解るが、制限に満ちた言葉とは、創造、発想、表現や言葉やアイディアの枯渇、の限界を伝えて来てくれてるものだろうか。

汚い言葉から、綺麗な言葉、ユーモアまで使い手1つで無限の表現が表される。
もし言葉や自律まで、制限掛けた果てに、ただ死ねと言えば死ぬ大人になるのか?と思ってしまう。

いつも制限がけた話ほど中身が無く、ただただ無責任である。それほど尊くしのぐべき誰の為に忖度させられるものかと思うと考えずにはおえないからなのだろう。と言うのは根底に「定義」を用いること。
大人の概念までねじ曲げ伝えたい愚かさに、日々改めて思うと、子供にはこうなって欲しくないこと、こような話を子供にして欲しくないと改めて思った。

尊くしのぐべきは、自愛の念に満ちた信念でいてほしいと、そんな子供でいてほしいと思うことだ。

今は、損得で物事を教える機会が多い分、都合が全面的に前に押し出される。誰かが、制限=機会損失であってはけないのだろう。


例えば、提案やアイディアを求む機会でも、1つも聞く耳がなければ、1つもアイディアは浮かばないだろう。

10聞ける耳があるなら、1つアイディアが浮かぶだろう。

50聞ける耳があるなら、5つアイディアが創造できるきっかけになるだろう。


規律の中には、自立は必要不可欠だか、個人の自律まで犯される程に、尊いものがあるならそれは、もはや個人や誰かの自己欺瞞に過ぎない話だろう。自己欺瞞の為に、概念や常識用いてまで制限されることは無論、荒唐無稽なのだろう。


例えば、「日本国憲法」にこうある。「自由権」基本的人権の分類の一つであり、国家から制約も行政もされず、自由に物事を考え、自由に行動できる「権利」を言う。憲法を尊くしのぐ教えをされた思いはないが、間違いなく尊くしのぐべきは、生きとし生を授かったおのおの自身だろうか。

自愛の念を大切にしたい所だ。


大人と言う定義を用いて否定するが、概念までネジ曲げてしてまで制限がける話は、到底面白い話でもないのは確かだ。


ただ「自由」と言う意識もこの国の課題なのだろう。自由と言う意味をまた誰かの忖度にしないようにと思うところ。その為にこの国は、大昔から腹をくくって、お腹を切り、首を飛ばしてきた偉人達がいた国でもあるだけに、

自由や国の為に尽くしてる者がいると思うと、こんな話は小さきことかな。と改めてふと思うのだ。

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