「投資」と「実社会」についてふと思う。

過去2020年4月14日に書き留めていた、記事をピックアップしています。


オリンピックも延期になるまで各関係事業の拍車がかかってるタイミングだったと思える場面であったが、コロナの件を誰が予測出来ただろか?


オリンピックも延期になるまで各関係事業の拍車がかかってるタイミングだったと思える場面であったが、コロナの件を誰が予測出来ただろか?

だがこの先インバウンドは更に急増すると思わざる終えないのだろう。

インバウンドがもたらす変化がもう楽しみでしかない。

予定していた既存の形態が良からぬ事で、足止め的に企画が無くなる場合と、形態が変容を遂げ本来の目的を果たす場合がある場面が現れる時期なのだろう。

誰かが、大手が、優秀な人が発する情報によって、側面的な判断でその物事一体が、側面的なままの希望的観測に落ちいった流れが誘発されやすのだろう。特にニュースはお墨付きなのだろう。

そんな一面がこの国ながらの「癖」だからと思えるからなのだ。


オリンピックは延期になったが、ワクチンのオリンピックは始まった。と思える様に、何かが側面的にダメになっても、何かが変容を遂げ芽を出す流れなのだろう。

今回は世界規模だ。投資感覚で言えば不況の中のプチバブルもあるのだろうか?

ある。

期待値は金銭的モチベーションより、救いのモチベーションなのだろう。

”いつも表裏一体、悲哀の中に歓喜がある「V字」があることだ。リターンはいつもその中に隠されてる。”

為替で例えれば、表面的なところを毎回なぞってても解らないことと同じで、簡単に言えば下落の中に上昇または、上昇の中に下落の期待値がある、リターンはいつもその中に隠されてる。


今目の前に起こっている状況に対し反比例して物事が突出する事が出来る、そんな期待値が高いゾーンがあるのだろう。「ピンチはチャンス」と言えば解りやすく。

コロナの影響で撤退する企業とその枠を狙ってた企業と。後退に見えて、転換点であり進展いつもそのような状況下おいて成長する。

自分ごとだが、たまに成長痛があるが、今だに成長してるのかといつも思ってしまう。

何事も成長にはいつも「痛」が共なう。痛い盲点を突かれなくては無何事も変容も遂げる事が出来ないものなのだろう。

自身の成長として、人生の悲観的要素からどれだけ肥やしとして糧にに出来たか、それまで取り入れていた事など本来は成長痛の期間として「変容」出来る要素が沢山あるのだろう。

ただ残念な事に、このような危機的状況下において変容しない事は少し問題が別にあると考える要素が見込める時もあるのだろう。コロナの中多くの危機的な状況下において、日頃培って来た成果と発展が垣間見れる他国が沢山ある事も事実なのだ。

他人の悲観的な側面も一面的に見れば、悲観的だが、表裏一体の思考で観ている人はどれだけいているだろうか。

投資で言えば下落途中の人に手を差し伸べる「力」があるだろうか?

「優しさ」とはマーケティングで言えば、「サービス」的要素だ、それはコミニケションにおいても同じなのだろう。「優しさがサービスなら」それは想像力関係しているからとされているからなのだ。

「優しさ」の追求が、高いリターンを生んでいること。「サビース」の要素は側面的なマニュアルだけではなく想像以上の「優しさ」が埋もれているのだ。実に面白い。

想像力が、一面性だけを捉えるのか、または表裏一体として捉えるのか、人の個性千差万別と言えるところ。


例えば、自身の状態はいつも他人には良く見られたいと思うものなのだろう。髪の毛、肌、細胞、全てにおいてターン「周期」があるように、一見、錆び錆びに見えていたとしても、また綺麗に見違える事は理解している。

一度、他人に見られたくない時期に他人に否定されると。只々最悪の出来事として過ぎ去るだけなのだろう。

どのような時でもターン「周期」が全てにおいて存在して他人をどのように観ているかどうか?

一時の側面的な断定的な要素を印象付けたり、または流されしまう判断とは「周期」を読み忘れてしまった。または本来チャンスとなる要素にたして、構える姿勢ではないとされるのだろう。

それでいて、人生のターン「周期」に垣間見れる「最悪な時程」、先ほどの話ではないが、そんな時でも見違えて見られるかは、それまでの栄養につきるのだろうか。悲しいことに自分に取り入れた責任は自分だけにしか帰ってこないこと。何もかもターン「周期」が存在し、ブーメランのように帰ってくる。

これまでにしていたこと全てに遅かれ早かれ自身にターンがある。

現在において、優秀と無能にかかわらず、そのような「責任」のある生き方を理解して欲しいものだ。そのような在り方とは都合に流れている事が残念ながら多く見かける。


結局、側面的な判断を実社会で用いた判断とは、一面性だけの進行系の追及は、それだけ大きく損をしやすいことなのだろう。

決めつれけば決めつけるほど、格付ければ格付けるほど、結局特定しようとして「得しようとする」が、結局損していては意味がない話と言うことなのだ。

そういった集合意識や側面的な要素の規模が大きく、または多くなればなるほど、結局そこに期待値はないのだ。

投資で言う、羊のボトルネックなのだろう。一つの流れが出来てしまえば羊はなりふり構わずその方向目指して流れてしまう。挙句の果てにその出口は詰まってしまう話なのだ。色々考察する方法はあるが、投資での驕りは損しかないのだ。深い話だが理論的に考える所を除いて話せば、風を読んで意味がある所と風を読んでいても全く自身に身にならない所があるだけなのだろう。


ふと若い時から結局考えて見ると、先立って成功していく知人達がいるが、ゆっくりだがしたい事リストがすべて叶ってきてると思うと感謝しかないのだなとつくづく思うのである。

こんな時代背景だからこそ、マイナス要素が高い競争や追い立てる勢いや側面的な流れに流される事無く。

只々ゆっくりと更なるリスト消去の為に、物質、精神、変化に備えなければならないと日々思うのだ。
どんな時も自分だけの「課題」があるはずだ。そんな自分だけのエントリータイミングに集中するだけなのだろうとふと思うのだ。

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