「素質を上げれる子供の教育」についてふと思う。

「教育」この言葉は、しがらみが多々ありながら、人生に多大な影響を与える永遠の課題でもある。

何故か「教育」と言う言葉は、自身の人生において気が引かれる「ワード」なのだ。


人生において表面上の「義務」「与えられもの」として身近な施設で執り行われる「学問」が何もかもの根底になると言うこと。

何故これをただ「与えられなくてはならないのだろうか?」と疑問になるのだ。

自身当時から思っていたことは只々強化習慣でも言えようか、与えられたものから選りすぐりの人生の岐路を幾度も選別していく糧になると思うと、
ただ「与えられるもの」を疑いたくなる性分だった事を思いだす。

それが故に当時、独自の観点で探しだしたものだけが、今の自分を培っているのだろう。

それが故にあまりにも独自の観点を、実験的に送ってきた人生だけに、奥深いものが沢山あるで今後紹介していきたいと思うのだ。

”「三つ子の魂百まで」”幼いころの性格は、年をとっても変わらないということ。は間違いなくその通りとされている。
その影響がどのように教育と関連していくのかふと思うのだ。教育と言う過程を「与えられる」までの期間の「重要性」について。

幼少期の性格とは。

「学問・学力」が全くスキルとして全く無い状態であり、著しくその者が「真人間」である状態でもある。
その人間性が社会人の基盤になっていくことを証明している。

これから社会に出て埋もゆく前の綺麗な潜在的な状態なのだろう。

にぎやかな子は、その特性が社交性に変容し、おしゃべりだった子は、社会的コミニケション能力が著しく高いこと。
また器用な子や、繊細な子、面白い子や個性は様々に存在する。しっかり生まれてきた意味そのものを表現している時期なのだろう。
 

またその幼少期のスキルとは、「知能(IQ」の素質が著しく表面化されている時期とされ。

それは学業期間を経て、年を重ねていくと言う過程において、人間の根底にある基盤と良くも悪くも交わり、著しくその人間の性に影響をあたえるからなのだ。

素質として生物の種々を親世代、子世代、子孫世代と世代ごとに追っていくと、親世代が持っていた「特質」はやがて「平均値に収斂」することとされ、
「全ての遺伝的な要素は”平均に回帰する”ものとされているのだ。」

背が高い者同士、背が高い子供のうまれる確立は高い、またその逆も高いのだ。
このような身長差を平均値を垣間見る遺伝的に例えると、
逆にその背が高いもの同士、背が低い子が生まれる確立が4分の1の確率で存在していること。
その逆も同じとされる。子孫とは数千年の平均能力の積かさねと言えようか。

それでいて遺伝的な要素以外、真人間のスキルを底上げしていく過程において、 能力、教育水準、努力と言った「与えれる効果」がどれほど影響すであるのか気になる話なのだ。

「知能(IQ)」は極めて一般的な能力であり、
「推論する」
「計画を立てる」
「問題を解く」
「抽象的に考える」
「複雑な考え方を理解する」
「素早く学ぶ」
「経験から学ぶ」と言った能力が含まれる。

そもそもこの基礎的な能力ともいえる「知能(IQ)」とは、「学問・学力」とは”異なる”ことに注意を払って欲しい所なのだろう。

なぜなら「学問・学力」の向上に関して「知能(IQ)」の遺伝だけではけして決まらないとされるだけに。


同一人物の知能に関して、年齢と共に進歩していく(あるいは後退していく)と、学問・学力もその変化は同じと思うが、
実は「知能」の能力とは、生まれながらにして幼少期より若年層、中年期、高年期といった年齢の経過の違いによって、
同一人物の「知能(IQ)」の値が変わらないこととされる。

生まれながらにして後退も進展もしない数値が存在していること。

それでいても何かの影響によってその能力にバラつきが生じるのでないかと研究を行た学者の結果によると、
勉強・訓練を施すことによって、その「知能(IQ)」に変化を与えれる可能性が高いのは、
やはり若年層であることが十分あると言うことなのだ。

こうして明らかになったことが、学業成績は遺伝の貢献割合が55%、とされるが、
残り半分の値は、環境・非環境と影響が計算されているのだ。
この55%の割合を少ないと言う見方をできるのだろう。

よって著しく現れる「遺伝的な貢献度が高いものは、特に数学であるとされる」なぜなら「知能(IQ)」の能力うち、「言語知能」以外は、遺伝的な貢献の割合が70%も占めているからなのだ。

と言うと潜在的な要素70%細かく振り分けると、本来の「知能」のみでこの世の中の適職に割り当てられると言うことなのだろう。

ここで面白い事が、生命学的にも命式上、学業社会の秩序に合致する命式は20%にしか満たないと言う見解があるぐらい。本来の生まれ持った能力で活躍出来る割合が80%とされるのだ。この不適職による迷い。不満。楽しくない。やりがいを感じない、挙句の果て身体を壊す元と思える話なのだ。


話に戻るが学業成績を得意とする「学問・学力」は、残りの30%「言語性知能」であることを認識すれば学業成績と言っても過言ではなく、各分野によって、その遺伝的な要素以外の学力の訓練をする環境・非環境によって上達できるとされるのだ。

「学問・学力」を持って補えるカテゴリーが解ることによって、バランス整えることも、または「知能」だけを伸ばすことも本来は可能なのだろう。

本来このように人生を構築することによって、当事者の人生を創出する事に長ける国もあるぐらい理に叶っている教育の根底なのだろう。

話に戻るとただ人間の性として学問・学力とは年を重ねるほどに教育・勉強・訓練と言った効果の影響は少なくなり、後に表だって明るみに出てくるものが、本来の自分遺伝による「能力(IQ)」への効果が著しく現れるようになると言うことなのだ。

老化の岐路に立ち、当然性格が変わって来た話は沢山耳にする話なのだが、この様に社会的に培ったものの衰退により、著しく表れる「潜在的な自分」と出会える日が来ると言うことなのだろう。
楽しみにも思えるのだ。

まさに”「三つ子の魂百まで」”

幼いころの性格は、社会的スキルを外部要因で培えるが、「真人間な素質」そのものは、一旦埋もれる方もいれば、
素質を生かし晩年まで活用する方もいる、そして最終的には「真人間な素質」とは年をとっても変わらないというこは間違いなくその通りなのだ。

良く「潜在意識」「顕在意識」として紐解いていく著書があるが、本来紐解く前の段階から組み込まれた「歩」でなくては、本来の意味はないのだろう。

幼少期の自分が全てであり、一度社会的な環境に染まるが、本質として、その素質が良くも悪くも回帰すると言った所だろう。

晩年そのものが、社会的な環境要因の後退によって現れる「真人間」は、どのように変貌を遂げていくか垣間見れることなのだ。

それでいて素質を理解しその素質以上に、その「与えられる」組み合わせ次第では。遺伝要素以外「50%」の可能性を良くも悪くも望むことができるものなのだろう。

学業によって「与えられる」もの。

只々「与えられる」影響力とは、本来の生まれ持った優れた個性である「知能」や「潜在的」に伸ばせる能力を無力化(平均化)さすことも可能な影響力なのだろう、大人になり社会との「フラストレーション」によって、あなたの「潜在」が違和感を感じていてることも多く伺えるのだろう。

「3歳児神話」があったが、それ以降の年齢でもかろうじて影響を創出できること。

特に3歳で区切る根拠はないこと。海外の様に徹底的に遺伝子調査を行う社会でない限り。


それでいて3歳までに、かなり現れる個性を大切にしてあげることにって、
また個性に見合わない社会的ステータスやセオリーを年齢と共に、こぎつけることがないようにするだけで、
その者の人生の成長とは著しいものに変容してあげれるものなのだろうとふと思うのだ。

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