「価値を示す人生」についてふと思う。

ペットなどの死を、間のあたりにするとその人生の「意味」を凄く考えてしまう。
人生の旅として長くも短くも「意味」があり、そこに存在したと思うとその全てに「意義」があったんだと心から思えるのだ。

何をしてても、どんな状況にあっても、そのもの事から「意味」を与えてくれることに「意義」を持って生きていると考えれるからなのだろう。

本来人生の基盤として、どんな生き方をしていても、そこに込めた「意味」や「意義」を求める事で、良くも悪くも本人だけが満足のいく人生を歩めるのだろうと思うからなのだ。

どんな事をしていても自分だけの「価値」を、心底理解してそのものごとを行っているかどうか。

生きている合間に他人の「意義」を心底理解する事、また旅立ってからでも知ることは出来ないものとつくづく思えるのだ。
いつも後になって、そこには「意義」はあったのだろうと俯瞰してから気づくことは避けたいものだ。

生きていても、どんなけ他人と違った道を選んでも、良くも悪くも他人からは観える範囲とは狭きものなのだろう。
そもそも断片的な、言葉や0か100の答えだけでは、計り知れない世界観をもって生きていると思うなのだ。 

人生に良し悪し清濁のある事が前提の世界で、本人だけが唱えれる「意義」を持って答えれるなら、
それは人生において「意味」と「価値」のある人生を他者に示す事が出来るのだろう。

他人にその人生の「意義」まで理解してくれる事があれば人生の奥深さに触れれたものと思うと、嬉しくはならないだろうか。

人は理解を求め、共感を求め共有して生きているようで「理解」に達することは尊いことなのだろう。

もとは理解されない考え同士が、理解し合う事に努めながら手さぐりで生きているようなものだとすれば、到底理解を示すものが常になければ何もそこに示し合えるものがない者になってしまうのだろう。

そもそも人生は、ただ単に”生きる事”に「意味」を求め、更に「意義」とはその言葉によって表される自身の「行為・表現・物事」それに伴い行われ、存在する事に、ふさわしい積極的な(すぐれた)価値が生まれるとされる。

「意義」を示し合うこと。他人とは違いを知り合うものとして、示された「意義」を知れることは尊重に値するからなのだろう。

死を前に、その者や自身の「意義」を知る事は出来きないのであれば、まず関心を他人に向くのではなく、自ずの世界に向き合い「意義」を持ち、他人に「意義」を示すことではないかといつも心得るようにしている。
他人とは違いを示し合い、その価値観に感化され、自分と言う物差しとなる価値観が更に成長するなら、
「意義」を示すことは、違いに翻弄されるものに救いを示すことにも繋がるのだろう。

表面上「意味」のある人生だけでは、
「生きること、仕事をすること、食べること、寝ること、楽しむこと、喜ぶこと。悲しむこと。」更に「違いに悩むこと」と多々あるが。
それ以上にその行為一つ一つに自分だけの「意義」を込めた人生を他人に示す事が出来ているなら思いがけない人生の喜びと出会える事も増えるのだろう。

やはりそこには千差万別やはり他人には、解らない世界があることが前提なのだ。

例えば親が子に示す生き方には、「生きることの意味を、その人生を通じて示すのだろう」
背中を見せることに、「意義」を感じ取れる以上に「意義」を示し与える事も出来るとても有意義な場面でもある。表面的な定型を共有していく事により解消される「不安」や「悩み」以上に、「意義」を示すことによって「不安」や「悩み」が何故か消えていく人生にもなりえるものなのだからなのだろう。

どれだけ断片的に捉えられた世界観や、否定的な世界や、命に関わる情勢が来ても、その「意義のある人生」があるのであれば、「結局どんな時もぶれる事の無い人生を通して、自身にとって後悔のない人生になるきっかけにもなること。

“地獄で仏に会う”と言う言葉があるが、
危難や苦しみのときに、思いがけない助けにあった嬉しさの例えなのだが。
生きていて、その者から観る地獄の世界と、他人から観る地獄とは根底に共有し合えない苦しみがあると思えるのだ。
いくら仏に会い窮地から助けられる話以上に、どんな時も、この言葉から考察出来ることは、平常時から向き合えれる一番の理解者は自分自身が何より自身の救世主であり、
そのもの事に、どような「意義」を持つかで、その人生すら大きく変える事が出来ると思えるのだ。それはどんな逆境や困難な時でもなのだ。

それでいて何より生きる上で、もの事、行為、全てにおいて、「意義」を持つことで、確かなことは「幸福」への近道なのだろう。

より自分自身を、「幸福感」へ近づけてくれる思考であり、何より初めて「有意義」のある時間(人生)へシフトしてくれる生き方とされるだけに、生きている人として更に人生に深みを与えてくれる。

例えば、平安末期から鎌倉時代にかけて行われた話だと、疫病や餓えに耐え兼ねた時代背景だけに、写経するとき、「一字三礼」と言い、1字を書くごとに三度礼拝する行為。
「一字」に「三回礼」をするほど、「意義」を込めて行っていたとされる。
この方にとって大切にしているものは、他ならぬ「言葉」なのだ。
「文字」に「意味」や「価値」があり、「文字」に「意義」を込めた時代なのだろう。

また詩は特に個人的に好きな分野なのだが、平安時代の詩人の詩の一説に、
「名こその瀧」と言い、当時すでに枯れ果てた瀧があるのだが、詩人からすれば、流水もない枯れた瀧を眺め、

その「瀧の名前だけは現在でも流れ続けている」と、その者だけにしか解らない「価値」のあるものを読んだ詩がある。良くも悪くもそれもその者だけにしか解らない「意義」のある人生観なのだろう。

詩に触れる事はその者が「心の血」で書き綴った深みに触れる事が出来るので、他者の「意義」に触れる事が出来るのだ。

興味ある物事以上にこの世の中は無数の「意義」が存在し、その「意義」よって更に磨かれ続ける。

死んでも解らないもの、またその者だけにしか解らないものの中に、「意義」とはあるのだろう。

他者とは、理解したい者または共有したい者以上に無数の「意味」を示し多くの価値観の糧となる「意義」を示しあっていることなのだ。

他者とは他ならる宇宙を覗くようなもので、一つ一つの行為、または大切にしているもの事に、自ずだけの「意味」を理解し、更に「意義」あるものであれば、おのずと他人に「意義」を示すような人生を送る事に繋がること、そこには「価値」があり尊い事なのだろう。

他者に嘆いてばかりの者ほど、何一つ人生の「意味」や「意義」に気付く事無く、「有意義」とは反対の道にいるのだろうか。これは人として「意義のある人生」を送りなさいと言われるだけの価値があるのだろう。
よく「幸福」になる本などあるが、より他国の人種とは違い丁寧に生きる事が出来る人種だけに人生の生きている「意味」以上に、人生にや人に「意義」を込めれるはずなのだろうと思うのだ。
その人生は「幸福」であり、人生は「有意義」のある価値のある人生にもなりえるのだろう。

何故なら本来の日本の歴史から観れば、この国ほど生死を通して他国にはない、生きる事や死ぬことに「誇りを持ってきた意義ある人生」の見本が沢山あるだけに、人として他国には無いより気高い生き方を知れる事とは、現代においてもより深い「意義」を示せることなのだろうと思うのだ。

住人十色様々な「意義」を尊重出来る事がより幸せな人生にもなるのだろう。一度の人生の旅だけに、自ずだけの「意義」のある人生で「価値」のある人生を送りたいものだとふと思えるのだ。

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