2020年4月7日に書き留めた内容なのだが、コロナウィルスの猛威とメディアの拡張によって、まじまじとその深刻差を知る事が出来る世の中、戦後数十年築き上げてきた資本主義や金融政策があたかも、この数週間の出来事で崩れかれている現実を間の当たりにしている。
金融経済にとって、アメリカ経済の景気後退後、金融政策により築いた日経平均価格の暴落、アメリカドルの暴落、リーマンショック以来過去最高の下げ幅を、また間の当たりしている。
何より実体経済の「消費」の停滞による、市場混乱やリスクによる実体経済のもろさから学ばなければならない盲点を目の当たりにしている。
世界規模で、経済、医療、衣食住が壊れることがないと思っていただけに、それだけ脆いものを、より強固にしたものにしていかなければならないのであろう。
世界規模の流れの中には、確かなエラーが今回の一連で浮き彫りになっていることでしょう。
それはフラクタルに個人単位でも、そのエラーを指摘され正されている時期でもあるのかと思います。実経済に歯止めがある事、世界規模でいつも、「不安」や「心配」「死」このような出来事が募る時程、大きな学びがあるのだろう。
過去戦争を体験した世代でない限り、平和から戦争へ移行されていく過程置いて儚くも辛い言葉以上の体験と学びを感じ取っていたと思えることだろう。
世界の課題は、衣食住の課題、医療の課題、会社の課題、「個人の課題」を通じて、いつもフラクタルにそのものが起き続け影響を受けていること。
”人生は、いつも知らず知らずのうちに誰かの課題の中にある”こと。
生かされている法則にはいつも「力」がある。
トレード(為替)を自身も取り組んでいるので例えで紹介する事がある。
同じで、取引の流れには、大きな時間外の流れがあり、また小さな時間の流れ、分単位の時間の流れが存在しているのだ。
どの時間を追いかけながら、どのように影響を与えるのか考察しながらトレードを行う。マルチタイムに創造することからいつも始まる世界なのだ。1枚次元の世界ではなく、マルチタイムな時空が存在しているだけに、多様な思考がベース、「俯瞰」された目線が必要になるのだ。
ただ一辺だけ触れようとしていては、その全貌も見える事無く、ただ目の前のことだけに囚われてしまうのだ。
「近年の実体経済の中で、物質に枯渇しそうな生き方の原因は、あたかもマインドの限界を知らされてるようなのだ。」
マインドの限界は、いつもスピリットの離脱から起こる暴走なんだろう。本来歴史からでも学べるが、ここでは割愛しとく。
マインド暴徒化の見直しなのか?科学的解決と祈りによる解決、いつも一面性だけを求むだけでこの世の解決に至るのだろうか。
何事も表裏一体でなければならない。人である限り身近な出来事として、死の淵では、魂や精神性を考察しなければならないのだろう。それだけに戦争の時代では無いが、コロナと言う対人間への脅威を目の前にしている限りなのだろう。
こうした「精神的課題」として突き立てられている事に間違いがあれば、間違いを指摘される。やり直し、見直し、改善、改める、リセット。も用意される世界なのだろう。
世界規模の出来事は、「フラクタル」に、個人単位までしっかりそのメッセージが届く様になっているのだと思わされる事なのだ。
身近な出来事から一番の成長過程において、いち早く気づいたものが
「望む進化」に近づけるとされているだけに。
何より間違いを知ろうとする事。
間違いを正そうと思う事。
そうすれば必然的に答えは用意されている事。
生きている限り、物質的限界がきても、精神的限界があるだろか。何より
経済的不況や困難から、諦める理由はないのであろう。