幸福になる為の「責任」についてふと思う。

過去2020年5月20日に書き留めていた、記事をピックアップしています。


社会に出て一人の社会人の1人として、人として「責任」と言う言葉を背負う様になるが、この「責任」と言うキーワードについてどれ程認識しているかどうか?

どこでどのように習い、実際に寄与出来ているか?

この「責任」は、その人の関わり方だけでなく、その人の「幸福」と深く関わっているとされている。

個人や個性が活躍する時代には必須なことなのだろう。個人の仕事が著しく活躍していく時代の始まりなのだ。


投資の世界とならば、全て「責任」は自己に委ねられる世界だけに、幸福と表裏一体なのだろう。


また昔、マネーの虎と言う投資番組で、依頼者が無事に投資資金を元に企業していたが、ある日投資家が訪れた日に、風邪で休んでいる事が発覚し、投資家から企業家としての「責任能力」がないと大変指摘を受けていたのを思い出したが。

この企業家として「責任」、働き手として従業員が居ればどうだろうか?

企業家と言う肩書きの元問われる「責任」はあるのだろうか?あなたならどう思うか?
日本人は、古来から特に「責任」に大変「美徳」持って取り扱って来た歴史があること。

それは、天皇筆頭に与えられた権限の任命の元、統治が今も尚行われている国家だけあり、古来より諸外国大名や武士、長らは、問題や不祥事、争い事があれば1つ1つに事実「命」を持って「事柄」を、「無に清めて来たとされている。」これだけ、「事柄」は負して扱われてきたのだ。

それだにあって大名や長らは、言葉1つ1つその「責任」が生じないように、または、江戸時代は特に約200年続いただけに「命」を持って国民を納めて来ただけあり、特に国民から厚い「信頼」があったとされている。

これだけ諸外国の統治と違い、国民が困れば真っ先に率いる者は「自己犠牲」を元に、国民を納めて来た国なのだ。

大名ですら天災、災害に備えて日頃から「備蓄」を行い、足らなければ他国に借金をしてでも国民を衣食住を守ったとされている。

これらは平安以前より長い月日の中変わる事無く、その土地を収めいる長が、「お米」を給与として与えられ、備蓄と供給の責任を負ってきた歴史があるのだ。

こうしてこの流れが何百年と続き今日において日本人として存在出来ていること。

この歴史をもって諸外国と日本の企業の違いなのだろう。

不況とならば真っ先に従業員を理由なく解雇する諸外国と違い、借金してでも従業員を思う中小企業または企業の在り方には、「責任」と取り方について歴史から違うのだろう。

人の上に立つ「責任」=「美徳」の心が、日本人なのだ。


このようなお金を第一主義として現在の契約書の中で、もはや個人の資金集めの為に働いている企業としての「責任」の取り方と、日本の企業としての「責任」の取り方と、「責任」の範囲として記述相違があれば要注意な点なのだろう。

そもそも企業するものに生半可な気持ちで取り組んでいいるもはいないものだろう。

それでいて今はドリームキラーやエネルギーキラーやアンチに足を引っ張る輩が多いだけに、それらごときに萎えるようでは、今の時代企業は向いていないのだろう。

それだけ「責任」をもって行っている者の事も知らない、または、迷惑承知な「無責任」なものが多いのだろう。

そもそも何が起きても「責任」が取れないなら困るのは従業員とマネーの虎の投資家も言いたかったと思えるのだ。

企業家または、その長として従業員と同じ思考や意識なら意味がないのだろう。


企業家として「責任」があるが個人単位では大きく4つに分けれること。

起業家、投資家、社員、従業員の4つに分けられる。

4つの内、起業家として多く夢を持ち社員を抱えることは、その長として当然「責任」が生じることは当然の話だが、また残りの3つに関して、特に帰属する者として、生じるものとして「自己責任」なのだ。


生きる上で、起業家になるにも自己能力として判断が基板なのだろう。

何故なら、ここでまず念頭に置かねばならないのは、現代社会が「リスク社会」と呼ばれる社会であるということである。

冒頭に紹介した個人や個性が活躍する時代には必須なことなのだろう。個人が著しく活躍する流れとは、「個人の尊重」が著しく保守されること。

個人を保護する法律が著しく活躍し始めるこで、被害者や加害者にもなりやすい環境に変容していくことなのだろう。

リスク社会において、社会が複雑化・流動化・高度化しているため、行為の結果を委ねたるだけでは見合った結果を望めないとされていることを念頭に置かなければならない。より丁寧に生きていくだけなのだ。

逆に厳しい世の中と思われるが、個人や個性が尊重されていく過程において個人において予見できず、行為の結果もそもそも甚大なものとなりうること。


何故なら「自己責任」とは本来「成長的価値」があるとされ、人は自己決定することによって成長することができることで認識されている。

自己判断を削り教えられて来た事とは全く違うことなのだ。

「人任せにせず、自分で考え自分で決定すること」で成長する事が大前提なのだ。また判断を自己に委ねた分だけ、幸福度と満足は長期的に保たれるもこのとして健全な社会的健康習慣になるのだろう。

自己責任の意義として、3つ挙げることができる。人生において「自由・平等・効率」である。割愛。


自己責任の原則によると、責任を負う範囲は、個人ゆえに自らが決定した結果に限定される。

そのため、自らの意思によらずに責任を負わされるということがなくなり、”自らの運命をコントロールすることが可能となる。”この意味で、本来「自己責任の原則」は「自由」を保障がされていること。

自己判断のメリットは、”自己決定をした場合には、成功したときだけではなく失敗したときにも成長することが出来るからなのだ。”

他人に決められた事柄から、不満を生じることも、もはや「自己責任」なのだろう。

それはそれで人は自分で失敗して初めて学ぶものがある。

それでいて言える事は、自己決定していない場合には、このように自分の過ちから学ぶことはできず、成長(したいこと)に結びつかない為、失敗から学ばないとされているのだ。一丸に言えないが傾向があるとされる。

不満のスパイラルとは、自己決定力に欠けるのだろう。もはや人生において誰のせいでもないのだろう。

「無知は他人のせいに出来ないことと同じなのだろう。」


まず問題となるのが、自由と自己責任の関係である。

自己の判断とは悪いものとされている?

これからの時代「自己責任」の社会は、これからどんどん浸透していくこと。

地方自治や各業界が臨む進展の先に、必要とされる能力に「自己責任」が問われるからなのだ。割愛。

個人の能力が問われて来ている時代、特に必然と必要な能力「自己責任」なのだ。

そこには、自己選択の人生において「他人の責任」として生きようとする者の必要性が、真っ先に優先順位が低くなっていくこと。優位性がなくってくることなのだろう。

社会全体がAIが浸透するとされている各業界において、機械に出来て人にしか出来ないものの中に「責任能力」が問われることも1つなのだろう。割愛。

その前に人生において「幸福」になりたい者の中に、実に「無責任」な人生、他人のせいにして生きている人が多いことは矛盾なのだろう。

前に進む為に解決しなくてはならない事は確かにあること。もし他人に委ねて来た所があるのならば他人のせいではなく、本来自分の「幸福」がそこに隠されていたかもしれないのだ。学びと成長そして喜びに繋がることなのだろう。


このように「責任」「無責任」な人と比べ、これからも「自己責任」能力としてまたは知識として知っているだけで、本来人として「幸せ」または本当の「幸福」の中で生きていけるのだろうと思えることなのだ。

自らの運命を幸福にコントロールすると言う事は、誰よりも自分を信頼し、自分に素直でいる事が人生の基板なのだろうとふと思えることなのだ。

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