「わがまま」と「あるがまま」についてふと思う。

この世界の進展の中に、「スコアポイント」によって、個人の「信用度」を計っている国が
存在する。


中国では既に、共産的だが「社会信用システム」として「信用スコア」、人工知能(AI)によってスコアリングされ
各信用度によって、パスポート発行や移住先の範囲など、中国ではこの社会信用システムのせいで
航空券や鉄道のチケットを売ってもらえなかったり、スコア別に低金利で借り入れが出来たり、NPOなどの組織の立ち上げが禁止されたり、特定のデートサイトが利用できなくなるといった事態が現実に起きているのだ。この話も数年前の出来事なのだ。


一方で、スコアが高ければさまざまな「特典」が受けられる。

この「特典」の仕組みが、日本でも発展を促しかねないのだろうか。
すでに特典ポイント慣れしている国民性では、違和感なく「信用スコア」の取得が認知されれば容易に行動がポイント化してしまいそうと思えてしまうのだ。

また日本ではマイナンバーカードとしては、世界的に遅れていること。渡航歴や交通機関の歴など全て日常を把握されている国も実際に既に存在しており。
またや借入金のスコアの対象として実際に行政機関によって執り行われているが、国内では金融機関の信用情報として取り扱われているくらいなのだろう。

このように個人単位の進行形の先に、「個」の存在価値が先なのか、それとも「スコアポイント」が先に
その人物の評価をしかねない状況なのだろう。

「個」として確立していくなかで、個人のふるまいが目に余る懸念を心配するお国柄だとしたら、「個」として有るべきして目の前に現れる「壁」とは何か?

「個」が突出した状態を良く「わがまま」と言うが、「わがまま」と言う壁に苦悩するのも勿体ない話なのだろう。
意味は、自分の都合を中心に物事を考え、行動するさま。”他人の都合を顧みないさま。”とあるが、それに対して似たような響きもあるが「あるがまま」と言う言葉なのだ。

「あるがまま」でいる事は、「わがまま」なのか?

「あるがまま」と言うといつも「猫」を思い出してしまうが、猫と言うのは凄く「マイペース」
餌をくれる人でも、自分の気分しだいでプイとどこかえ行ったりして媚びないとこでしょうか。

と言え猫の世界は「わがまま」でバラバラではないといつも思えるのが、「あるがまま」に生きていることだと思うえることなのだ。


「個」として「わがまま」に生きれば、結局やりたい放題にしたら良いと思いがちになるが、
「自由意志の根底」にも繋げて考えてしまう話なのだろう。

実際に「あるがまま」に生きると言う事は、「あるがまま」に自身を”受け入れ”自分も”あるがまま”に努めることであり「”相手のあるがまま”」もちゃんと「受け入れる」ことが出来る状態を言うのだろう。

そこには自由につながる「”尊重”」があるのだろう。
自分が自身に「尊重」さていること、「自己愛」に満ち、更に他人を「尊重」する。

「あるがまま」とは、自由意志でいて、やりたい放題ではないと言うことなのだ。

それでいて「わがまま」とは、自分は”わがまま”生きることなのだが、「”相手のわがままを受け入れない”」とされていること。
ようは「あるがまま」でいられていても肝心な所「相手のあるがまま」を、
「受け入れなければ」「あるがまま」に生きることは出来ないと言うことなのだ。

「あるがまま」に努めることから、「自由」が観えてくるのだろう。

「自由」とは奥深く、手にすることを間違えると、失敗扱いされるだけに奥深いものを、欲望の先に望むものなのだろう。

生き方として「あるがまま」でいる事は、とは言え…難しいと言う方もいるのですが、
「受け入れる」ことの難しさは、何か?

それは「色眼鏡がない世界」とされているだけに、「好き・嫌い」など自分の尺度で
物事を判断しているからとされている。
日本は物の見方は、ある尺度にまとめようとする言わばパターン化された物の見方にとどまる傾向が強いお国柄なのだろう。

色眼鏡をそぎ落とした「あるがまま」に生きるとは「こう言う面と、こう言う面、更にこう言う面もあれば、こう言う面も持った人なんだ」
と「”受け入れていく”」ただただ見ているだけの世界とされている。なぜセリーの価値観に生きていても満足しないのか。
言われなくても、「わがまま」に生きて、「あるがまま」に生きてると言う人もいるだろう、それでいて満足出来ないい事はなぜだろうか。

運命学からすれば、相手と比較するほど運命が切り開くことはないとされ、個人においては「適した生き方」のみを開花させることでその運命が切り開けていくとされている。


例えば、「わがまま」で生きた方が運命が切り開ける人もいれば、「あるがまま」に生きた方が運命が切り開ける人もいる、それでいて「わがまま」で生きた方が運命が絶望する人もいれば、「あるがまま」に生きた方が絶望を用意されていることなのだろう。
どちらもこの世に存在する生き方であり、二択とない選択された生き方が、人それぞれあると言うことなのだ。

アナ雪のフレーズでしょうか、「あるがまま」に似ているが、それこそ何事も「ありのまま」に捉えることだけでは不十分な時もあるのだろう。
一丸にこれがセオリー通り正解だからと言う場面でさえ、本来はより良く自分に合った生き方の質を追求し理解するだけなのだろう。
解決できなかった価値観や世界観も、その違いを「あるがまま」に”受け入れていく”ことでこの世界の物事は解決に至る事だろう。

対人関係においては、何も言わない、流れるだけでは理解していない未解決な状態であり。
解決し合うことは何より理解に長ける何度の高い込みにケーションと言う事になるのだろうか。

こうしてシステムなどが著しく進展していく中で、システムの発展には「個」の管理が必要とされるが、
「人」として「進展」未開の境地としては、「身体」「精神」など。

それでいて「個」の発展とは、この国の課題である以上、進展の先には「わがまま」というフレーズで足ふみし続ける「思考の壁」と言う未解決の境地にいたらない事を願うだけなのだろう。

身心苦悩に至っていては、技術的な発展以上に「人の進展」も急成長が必要と言うことなのだ。

それいて「あるがまま」に生き、また「あるがままに受け入れていく」事が出来るのであれば
それは「わがまま」に生きるより、「あるがまま」に生きることが
本来は、この世の「楽」の境地なのだろうとふと思えることなのだ。

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