「延命は人として?」「延命はカルチャー?」についてふと思う。

過去2020年5月1日に書き留めていた、記事をピックアップしています。


 テクノロジーの進歩の中、本来時代にあった教育が必要になってくるが、教育の在り方に疑問を持ったことはないだろうか?

その教育の必要性について、教育の本質について理解し、教育もって何をするか?

自分にとって必要なもののはずだが。必要な目的と引用を見出し結果に繋げる。

その本質と価値観を理解し、それをもって初めて教育として成り立つのではないかと思うが、日々スマートフォントを普及によって、スマートフォンが教科書以上に身近になったことで、スマートフォントが教科書以上に「人間性」の構築を簡単に出来てしまう。

教養をスマートフォンの世界を通じて、人間性を創る事が出来る第二の教科書なのだろう。
時代の流れなのか面白いことにFBやInstagramやTikTokや動物の森などの人間の娯楽としてなのか、「第二の教養」としてなのか、その傾向を見て考えいると面白い。 

しっかり名目上の娯楽から傾向とその先に現実に置き換えれる「思考・言動・行動」を教育観点として振り分けていくと、しっかり第二の教育として目的を果たせれるの傾向があるのだろう。

この先の遠い未来の人格形成として、望まれる「人間性」を構築されているようにも見えるからなのだろう。

必然的に、与えられアウトプットさせられている環境は、「思考となり行動となり性格となり」そしてその人格になる過程なのだろう。

傾向を与え、頻度を高められ、その名目以上の目的の為に構築出来ること、「可能性が高いこと」そう本来の教科書より毎日の習慣となっている基盤なのだろう。


国内ではこうしたテクノロジーの普及によってある程度、テクノロジーの在り方について身近に感じとれるが、

海外ではどうだろうか。テクノロジーの進歩と発展の最中、海外ではテクノロジーは新たなカルチャー化、ファッションとして既に、”人とテクノロジーが一体化し初めていること。”はご存じだと思うが。


ほんとか嘘か解らないがこの動画でもアップしているが、一部の層ではこうしたカルチャーが数年前から浸透し初めている。ちなみに改造費約25万ドルだそうだ。https://youtu.be/ZG5e8i5AugQ 信憑性は置いておこう。

TVでもマイクチップの埋め込みが話題になったりと、進展や進歩を伺えることだろう。


国内でもこうした活動が現時点で少なからず勧誘や興味の範囲である事はご存じだろうか、既に各協会として日本で立ち上げられ既に活動し始めていること。


このような市場の波は人としてどうだうか?

カルチャーとして、ファッションとして流行りだとしたら?大衆に流される?多数決にまかせる?強制に従う?抵抗する?少数派で生きる?「常にどうするか?」なのだろう。

なぜ流行らすのか?なぜ必要なのか?


こう言った概念が直ぐ近くまで、より身近に配信されていることは常に「思考となり行動となり性格となえる」事なのだろう。

また普及しにくいものほど、一度はカルチャーやお洒落のラインとして世の中に普及されていることなのだ。
“こうした概念をどう思うかなのだろう。”

普及はいつも 「弱」所、「無」所、「遅」所から浸透していくこだろう。

また障害者にとってはテクノロジーによってより豊かに自由を得られ、交通の不便や利便性を促せる田舎などドローンの活用は画期的で浸透しやすく。またオシャレに敏感な若者はいつも普及の餌食になりやすい事も伺るのだ。

普及はいつもこうなのだろう。

こうしたテクノロジーが労働面や医療技術だけに捕らわれず、「命」の在り方までも変えてしまえるのだ。


事故や命の末期の時でも、本来の臓器提供で終える命であっても、「命」の真理を越えて「サイボーグ」として「延命」出来てしまうそんな選択肢が国内でも構築さてつつあるのだろう。

”海外では既にサイボーグとして延命されている方も沢山いること。”

命の真理を超え、「命の在り方」について考えれるだろうか。死の経験は人生に一度だけなのだ。

こうした技術をもって、自分の大切な人の命や、または自分の命以上に生き長らえることが出来るならどうするだろうか?

こうした延命をどう思うのだろう?

自身の経験なのだが、救急搬送先のベットで横たわる時があったのだが、救急の患者が一時的に救急処置をされ、

一室にづらりと患者が運ばれては治療を受け、また横にベットが並んだと思ったら減ったりと繰り替えされるのを見ていると、そこにふと横に新たな患者が運ばれて来たのでどんな感じなのか見ていると、良くしゃべり元気な感じの患者だったのだが、医師とのやり取りの際に、さらっとベットで座っている患者に医師が、「現状がこうなので、もうあと少ししか生きれないです」と親族を呼びますね。と耳に入って来た時、人生の一度しか無い死に際を目の当たりすると、自身の身内でも無く友人知人でもない方なのに、これほどまでに痛烈に「延命」と言う選択肢の在り方を考えさせられたのだ。

カルチャーなのか?

命を越えた新たな真理なのか?

道徳心を持ってして必要性を肯定出来るのか?

あなたなら「人間性」の真理を越えた選択肢を選ぶだろうか?

現在、精神性や霊性を教える事ない教育の中、教科書以上にこのような実体験への「関心」を持つ気持ちは生活環境において教え勧化させない限り特定の範囲として「利害関係」として捉えてしまうことなのだろう。

「無関心」の構築を一方的に促進して、日本人として「人間性」の構築を目指す先に、簡単に現在以上に「サイボーグ」を選んでしまうそんな子達がこの先出来てしまうとしたら考えさせられる事も懸念してしまうのだ。

男女の流行りとして化粧や男装、現在混種して来ている時代なら、無きにしも非ずだろう。

「顰に倣う」と言うように、良し悪しも解らず「流行りだから」「皆がしているから」なことばかりの考えでは、悪い行いも解らず流行りや真似てしまうのだろう。

何事も自分はどうなのか?あり得る事を考えないことは、無関心と言う無選択な人生になること。それはいつも強く望んだものに選ばさせられる事を同意していることになるのではないだろうか。

世間が他人が、あの人がと根なし草のように、自分が出てこない人間も居る現在において、自分がどう在るべきか、いつも自責の答えを持て欲しいものなのだろう。

現在において日本人としての「人間性」は、学校でも教えてくれないのだろう。

思いやりの心・気遣いの心、愛情など人間の内面のことなど誰が構築してくれるのだろうか?人生の悩みや不安はの根源は、全部そこから派生するものばかりあるのにも関わらず、誰がそんな大事な基盤を1時間でも教えてくれるのだろうか?
大切な基盤をもってして、人として留めておけるのだろうか?

それ以上に無味なテクノロジーの波は、ほっておいても来るのだろう。その中で無味ではない、日本人として「人間性」と、どう向き合っていくか?

物事の根底に「真理」がなければ来るもの拒まず、答える事も出来ない根なし草としてまた「流れる行く」者として「流行」の波にのみこまれるのだろうとふと思ってしまうのである。

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