誰よりも「優位性」であるべき思考ついてふと思う。

投資の世界で根拠を元に一旦答えを出した時、その答え以上に思わぬ結果を招く時がある。表面上の期待はどこまでもポジティブに描けるが、同時にマイナス要因もまたシナリオを構築しないと大変な世界だけに面白い。

思考の歯止とは、片側の行き着く先にある事が多く。特に人は「マイナス要素」はどこまでも拡大しやすい癖がある。日頃からその中にこそ価値がある側面として構築すると更なる価値観が眠っているのだろう。

同時に、はじめから良い結果を想像しラッキーな一面を垣間見ようとすることが普遍的であり、簡単に予想以上のパフォーマンスを望むことや、また予想以上の結果が出るまでその期待値を楽しむ要素にもなるから面白い。

このように物事の結果が、最高の結果を想定するか、または最悪の結果を想定するか。それぞれの結果を想定するのではなく。

分岐点となる「絶頂期」「頂点」とは奥深いものが垣間見れるものなのだ。シナリオの終焉では無く「途中」にはいつも障壁が存在するのだろう。

「99%内野ゴロ」の世界を見せられていると、次も次も「内野ゴロ」だと思ってしまうが、トータル換算された世界を目指す際なぜだか次も同じ結果を求めてしまうのだろう。

それゆえ「絶頂期」「頂点」と言う時期を想定するとなぜか障壁となる「絶頂期」「頂点」が結果や目標より低く感じれるのだろうか?

例えば投資的な話だが「1%」に、どんなけ資金や人生をかけれるだろうか?「1%」とは99%の障壁に対して期待値を持てるだろうか?

あの有名人な投資家ウォーレン・バフェットすら「人生における投資チャンスは20回も無いと思って投資しなくてはならい。」と言うだけに、日々の「選択肢」とは、目で見なくとも耳で聞くだけでは「内野ゴロ」の世界なのだ。

繰り返されることが必然と確率になり何故か次も期待している。いつのまにか期待しなくなる障壁になっていると言うことなのだ。いつのまにか99%の優位性が99%の障壁になっていると言うことだ。

例えばバッターボックスに立って考えみたら、

99%内野ゴロの結果に対して、次こそはホームラン、いやその次もホームランと思えるだろうか?

「1%の世界」の立場なのだ。

このどちらをどの様な「観点」でキャッチするか。

同じ物事の捉え方ひとつ、2極的また3極以上に数ある側面から物事を捉えると、そこには大きな違いがあるだけに、どちら側の立場でエントリーするシナリオを構築すらかによって、「1%」と言う投資障壁すら塗り替えられる世界ではないかと言うことなのだ。

障壁をくつがえす多要素が盲点なのだろ。
自身は「99%の根拠」なのか、
それとも「1%の世界」なのか。

この話に「答えを求めるなら」どちら側の「立場」で求める時でも、投資世界とはいつも「普遍的」なのだろう。

なぜなら

“投資の世界には「絶対が無い世界」なのだ。”
多面性、多様性が結果として数値化される。同じ確率が個人差によって変動する。提供されている物事は全て個人差によって変動すること。

投資でも、それ以外でも絶対的な物事をを求める時、目標や結果を求める説きも同じなのだろう。 同じだけ不安や心配を絶対的に求めるなら、1面以上に多面的な要素がその結果を底上げしていくシナリオに観えるのだろう。

またその逆の立場にも精通することと思える。
人生においても「恋愛」や「人間関係」「社会の基準」において、逆に一定エリアにおいては1面性を求め共有されているものと思えるのだ。
最良な物事をも求める時には、多面性であり多様性の中から求められることで、またその物事の障壁の見方も変わってくるのだろう。

本来はそもそも「普遍的」な世界であり「観点」と「観念」の世界なのだろう。

単純だか例えば、勉強だけ、スポーツだけの偏りがちになってしまう事もそうなのだろう。

学生時代に禁じられるものは社会で必要になり、規則校則で禁じられたものには嫉妬感さえ芽生える。女性の化粧など学生時代は不必要とされるが、社会ではしていないと失礼になり身なりとして求められる。

常に「普遍的な感覚」は存在し、何事もおもちゃ遊ぶ子供時代、ゴルフを昔からしていた子供は非セオリーな世界として上手な子になるのは当然であったりと。

垣間見れる世界とは、本来はいつも表裏一体「普遍的」なのだろう。

あやむやにされている教育観点や与えられている世界観を「普遍的」に観る感覚とは面白い。

人物像で考えてみるとこれも「普遍的」なのだ。

世界的なディズニーの生みの親、ウォルト・ディズニーは、全世界で知らない人がいない人物の1人として、ミッキーの生みの親なのだ。

生業がなるべくして成功した都市伝説の話があるがこれは耳にする99%の世界なのだろ。ウォルト・ディズニー自身は、表面上の「観点」からすれば「99%」として成功者とさて認識された人物なのだか。

事実ウォルト・ディズニー自身、才能に溢れていたかどうかと言うと。

若きウォルトは、新聞記者時代に、「想像力がない!」と上司や同僚から解雇までされ、スタジオ設立もするが、その当初からヒットせず、倒産にまで至っている。

更にテーマパークすら、市や地域か、幾度も建設に対して拒否されて現代のディズニーランドに至っているのだ。

「成功するかどうか解らない1%の存在なのだ」

一面性とは、世間一般論的に、見るからに聞くからに「99%内野ゴロ」の世界の人物とする一面なのだが、誰が成功さしてくれるかどうか「1%」にかけれるのは自身からしか観えない「観点」だけの世界だったのだろう。

常に「1%」の存在としていたからこそ現代におけるディズニーランドが存在するのだろう。

人間関係においても「観点」を気付く重要性が求められているが、このウォルトの「観点」と新聞記者の「観点」
今のウォルトと比べると人生に与えられている要素とは常に「普遍的」なのだろう。

物事とは「普遍的」考える意味がもたらしてくれる要素とは実に利に叶った思考なのだろう。

そもそも何事も「一極の一答の予想や憶測」損得勘定においてもリスクを忘れがちになりやすと言うことを思うと普遍的な思考には損をしない価値がある」という表現が現代において理解しやすいものなのだろうと思うのだ。

「普遍的」な「観点」とは、「あらゆるものに共通した価値がある」という意味が府に落ちるのだが、投資においても人生においてマインドの「観点」からみだせる「価値」が人生の障壁を少しでも優位に変容してくれるものなのだろう。

また、「お金の」の必要性として、無くてはならないが、

あの一万円札の顔「福沢諭吉」とは、慶應義塾の生みの親として「学問」広めた賢人なのだが「普遍的」な事として面白い逸話がある。

若き頃の福沢諭吉は、

“お金を踏みつける荒くれものであり、

神社仏像を壊し、

読書すらしなかった”との逸話の人物と言う逸話が残ている。耳にする話は「99%の世界なのだ」

人物の否定では一切ないが、予想とは実に実態に寄り添うものではないとつくづく思えること。

実際には賢人として、お金の使い方についても沢山逸話があるだけに面白い人物像なのだ。

表面上の「内野ゴロ99%」の高確率な真相とは、事実の障壁になり、真実の「1%の本質」にもなり得るものがいつも表裏一体あるのだろう。

こう思うと人生に訪れるものごと全て、断片的に良し悪しを求めてしまう「思想」とは、優位性をもたらしているようで優位性の無い結果を生み出し続けてしまう恐れがあると言うことなのだろう。

それ以上に「普遍的」にとらえる事で、自分自身だけの「観点」として「身になる」ものかあるのだろう。それは本来求めたい優位性がもたらしてくれる世界があり、「1%」の価値に触れれるそんな世界が待っているのだろう。

一辺な感情による「人種差別」や、ワイドショーなどの人生観における「人間関係」の複雑差とは、こうでなくてはならい事を求めがちだが、思い描く実態と比べ、本来あるべき姿は「普遍的」であり、真意に「あらゆるものに共通した価値がある」ところなのだろう。

「決めつけられるな。まず自分で考えろ」といつも心に唱えるのだろう。

そう思うと表面に囚われる事無く無駄に悩むことはなくなるのだろうとふと思えるのだ。

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