目標を達成する為の「祈り」についてふと思う。


“何なにしたから” “こうしたら”、だからお願いと「祈る」ことはないだろうか。

費やしてきた「祈りの分」、それだけお金をかけてきた事や努力してきた事が、この先結果として残る事とすれば、そもそも毎日希望する「祈り」は、正しく機能して「祈って」いるだろうか?

目標や規則、願いなど様々に毎日自身に唱えていること。唱えさせられていること、それは「祈る」ことであり、本人または他者の願いを希望していることは確かなことだ。


それとも希望する物事にたして前例があるかないかによって、その「祈り」の取り組みが変わってくるとされる。
投資感覚で言えば、誰もが本来変わりたい未来の為に、先行投資すると言っていいほど行動に移せるエビデンスを認識し毎日の目標を唱えているかと言うことなのだ。


変われる未来の為にしてきた事でも、経験上誰でもあると思うが「そうならない時」や、思い通りと違う時があると思う。
またそうならない為にも軌道修正として、「祈る」ことからまた始まるなら、まず見えてくるものがあるのだろう。


大事なのはこの「祈ってきた現状」と比べ、今ある現状は「どこから見えてきて。どう見せられたのか。」

ではなく主体となって「どう観るか」が重要なのだ。


これは1人1人の人の見え方にも繋がるのだろう。どう誰に見せられているのではなく、自分がどう観るかなのだろう。見せられた世界の判断と、どう観るかしっかり判断している違いを伺える。しっかりした自分だけの定義が必要なのだ。

つまり全ては「逆境」と言う空間に身を潜めその不可能と思えた世界をまず認識させられ、更に発展と希望を見失う事を体感させられる時。それでいて「逆境」にある事を見せられるのではなく。本人が本来の「祈り」から観ると言う点が著しく重要になっていくる。


また繰り返し未来の心配や不安を先に募らせる時や望む未来の為にまた心で「祈る」「唱える願望」として。

この先に進みたい道は「誰かが先に同じ事をしていた」引かれた道だったりするのであれば、それは”「未来ではなく、予定された事に分類されるのだ。」と客観的に物事を自身の「祈り」から外させない気づきが生まれたりするのだろう。


「祈る」未来と言う事を生きようとしても、誰かが先にいる事であれば、その未来はそもそも予想出来る未来として捉った方が良いのだ。

考え方は、未来を変えるのではなく。少しでも「祈り」先にある未来に近づいたかどうかなのだ。これは「祈り」イコール宗教と言う固定概念ではなく。心で毎日望むこと、それは願望への「祈り」であり「唱え」となっていることをひも解いている。


類似の結果がこの世に存在し引かれた道の予定は予定通りに進んでいるか。未知な未来を生きているようで、未来を管理出来ることだって可能になるのだろ。


ただ先立った予定と剥離している原因には、半歩先を見ずに、”今を見せられていてる事”として未来を自分でしっかり”どう観る”ことも出来ないままに至りやすいとされる。

それはやはり「祈り」が無い、または「弱い」時に起きるのだろう。


思い通りじゃない。時ほど、これは先立って行ってきた結果があったりする事、しっかり比較していく事が大事なのだ。
経験として、プラスマイナス費やした結果、”どう見せられたまま”の世界であれば、理想にも近づきにくくなりやすいとされ。

先立った引かれた道であれば、予定された結果に積み上げるプラスの行動なのか。

または、不要なものごとをマイナス出来ずに困っているのか。

または時にレバレッジ効果が働く中で行動しているのかと色々方法論があるはずなのだ。


その中でも何より予定を縮める事が大事なのだ。

良く自身も遊んでいるようで努力は見せないタイプなのだが、何で出来るの?って言われる事があるが、予定を理解し、縮める方法を知っていれば、遊んでいたり、また余裕をもってタスク管理が出来るのだろう。「見せられていては考えれないのだ」

世の中は、羽が生えたように物事を容易に進めていく方も勿論いて、そのような方がなぜ物事を「こなす」「出来る」「物事を完成」しているのかと言うと時列に「短縮するの力」があるとされるからなのだ。

時列を「短縮する」と言ってよいのだろう。タスク管理はフローチャートのようで更に、空間も短縮できることなのだろう。どのように管理するか予見と計画の幅は、その「祈り」が予定する未来から得られるのだろう。


いつも大事なのは「どう見せられるのではなく。どう観るか。」なのだ。

他の記事で紹介しているが、「どう見せられるのではなく、どう観るか」が重要なのだ。


また未来とは未知な取り組みであり。

好んで道なき道を進めることや、楽しと思えることや、好きだと言う価値観をしっかり持っていないとけない世界なのだろう。何故なら皆と同じスタートも限らない。同じこともしない。考えも違う。意思と反対にも動く。誰もが進まない世界の中から自身が望む物があるのであればそれは密林のジャングルで美味しい果実を見つけだすものなのだろう。


それが楽しいと思えるからこそ前に進む「リスク」と「勇気」が生まれる、それでいて目標や願望が「損なう時」全ての祈りの在り方が試さるからなのだ。

その様な時どう在るべきかと言う話だと気づいてくれただろうか。


ただ変わった生き方1つでも、いく通りある正解として「見せられている」だけでは、本来望む願望や目標に必要な正しいと言う道の存在に気づけなくなる、それは未知な道を見せられているのと同じとされ、ただただ先立って固定され図式に当てはめて考えてしまっていると、それは本来望まなくてはならない未知な道の先にある道として「祈り」方を正しく唱えなければならいのだろう。


その相違を、ただそれを壮大な未知な未来として考えてしまっていたり、思い通りと違うと嘆いていていけないとされるからなのだ。そうでは前に進めないのだ。


大きな成功や、大きな変貌を望めば、その道は予定ではなく、予想できない未知な未来の生き方を少しでも正しく「祈る」ことで思いもよらない前進と変化、目標への感触を彷彿させる糧になるからなのだ。


どうであれ、「祈り」を持ってして「その逆境をどう観るか」しっかりした「祈りの中にある幸せの定義」をもって置かないと、何を手にしたらよいのか、何かを手にしても幸せと限らないままになってしまうのだろう。

何も手にしないままになってしまったり、夢や理想を手にしても、思っていた幸せと違い、幸せ探しになったりと。また、火の中の栗を拾ってしまっただけになってしまってはい一度の人生は勿体ないのだろう。


毎日希望する望みとして、「祈り」1つでも、どうであるか「見せられている世界なのか」また「しっかりどう観るか」その違いによってはその望む「祈り」が向上することで、また人生が今以上に明るい未来にも繋がっていくものがものがあるのだろうとまた「祈る」のだろう。

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