「洗脳」された「性格」についてふと思う。

過去2020年4月19日に書き留めていた、記事をピックアップしています。

「洗脳」とは強制力を用意、民間、個人にたして、「思想」や「主義」を、根本的に変えさせることとある。

この言葉が出来た背景そのもに「中国」「共産主義」が発祥であることなのだ。

戦時中に行われた「洗脳」として、人間精神の計画的な破壊。本来「洗脳」や強要を強いたげる意味はないだろうという事なのだが。

中国国民批判ではなく、これらの体制の疑問で話していくが、最近ではコロナの発生について責任追及する調査を求める動きが世界各国でニュースや各団体の活動が活発的に報道やSNSで拡散されている。


今後法廷だけでなく主要国首脳会議のような国際会議の場も予想さるだろうか。武漢が発生源であるとされている、根拠が浮き彫りになるまで何とも豪語できないだけであるが各国の調査を追及する根拠もまたあると言うことだろう。

災害なのか?自然風なのか? 面白い事に危険にも変異操作が可能な「菌」を各国この機会に保有出来たと言うことなのだろう。
これだけでは無い話だが武漢の研究所内では、過去より「コロナ」として「冠状病毒」の名前でそもそも研究されていた資料があった事らしいが、そもそもこうなった背景は、特定の国を名指しにするのではなく世界を跨いで複雑な因果関係の憶測が勿論あるのだろう。

例えば中国の研究所内で起こった事故による漏れ説。中国経済の転覆(バブル崩壊)の他国を巻き込み隠蔽説やまた大規模なショックドクトリン説。中国陰謀論説。他国諸外国による陰謀論説。
責任追及と責任回避の攻防からこの先我々まで拡大していく損失は何があるのだろうか?

そこで行われるのが常に「情報操作」と言うお墨付きな報道側の自由なのだ。


中国と言う国の言葉に「嘘も100万回つけば、真実になる」と言う思想背景を行える言葉目にした事があるだけに。本来本質的な真実から、100%全てを嘘を混ぜ込ませ続けた先に、「興味の低下」「思考低下」「熱意の低下」と何故か我々の精神や生活の指針となる「思考」までいつの間にか「洗脳」と言う枠組みに囚われてしまう。傾向があるとされる。これは重大な「悲しみ」や「不安」が募る出来に対して毎回インプットされる情報により、本来感情が思うべき本質とは別の「無関心」な情報により低下を促せることから良くも悪くも戦時中に用いられていたとされる。本来「インプット」される情報についって、しっかり「アウトプット」出来ることからはじめて自由表現の権利が有効化されるのだろう。

政治に関与または口出ししてはいけない?と言う言葉を学生が報道人の質問に対して口にしていたがなぜだろうか?どういう教えの元そうなるのだろうか?

かたやフランスやヨーロッパの子供は幼稚園児から政治についてしっかり理解を深め、政治について発言出来る子を育てる傾向がある。


発言の場を強いる場においては、「個人の自我を保持する発言」が繰り返し求められることが前提なのだろう。

「自我の発揮は、頭で心をつくるのでは無く、心から頭を作るものが本来なのだろう」

そこで頭を研ぎ澄ますことが近年進んで来ていること。ある意味これからはこの2タイプ2極化してきていることなのだ。


コロナの背景以外でも、いつも気づかなくていけないのが「洗脳」がおこなわれているものがどれか、しっかり見極めること。

「平和の中に不安はつきもの」なのだ。「平和な国」であれば「平和ではない国」が良く思わないのだろう。

いつも「平和の中に衰退が施されていくこと」それは何故か?武器による弾圧は、対象者を無能力に破壊するが、一方で精神に対する工作は「長期的」に行われ、「反応に対応させること」を目的としている為、「それまで持っていた信念を転覆させる」こと。

いつも「平和な国」であること「死守」する事を忘れればいつの時代も衰退・崩壊・分裂・移民事もあるのだろう。

現状「平和の中の腐敗」をしっかり項目別に表示出来るだろうか。個人をコントロールすることを、脳の戦争において既に行われていること。情報社会を逆手にした盲点なのだろう。脳を情報を心で読み解き正す事はできるだろうか?


既に行われている国は、今世紀今現在中国によってウイグル人の絶滅計画、「洗脳環境」を町全体に張り巡らさせビデオ大規模監視、AIによる個人情報の表示録画、心理的な矯正教育と訓練、中国人と強制結婚、拷問の環境で生かされていること。ビデオカメラによる顔認証によって個人情報が表示されたままビデオ管理されているのだ。「一体化統合プラットホーム(IJOP)」人口知能と機械学習を利用して人を選別して共産主義に予防しているのだ。大事なのはここで行われていることは、これから起こるであろう独裁的な主義の縮図と言うことなのだろう。

大東亜戦争以前の日本であればこのような「不浄で不条理な行いを正したのだろう」


更に香港の民主弾圧、今コロナの影響でニュースになっていないが、今現在鎮圧の為、大学生がボーガンで射抜かれながら殺されていること。現代において戦時訓練も無い人が、明日にあれば武器をもって自由の為に戦うのだ。
今同じ先進国であり、経済の要と言う都市において20代の若者が自由の主張を守る為に殺されていることだ。

環境下は同じなのだ。自身が弾圧下の状況において只々戦えるのか?と心に問うのだろう。

ゆっくりとゆっくりと渋られていく流れを読み解き、いつも正せる心と指針があれば最後は「善良」を持ってして回避出来るのだろう。

国内で言うえば、「ストレス社会」そんな言葉が浮上してからどれぐらいだろうか?そもそもあっただろうか?

”洗脳計画はいつも「長期的」に行われ、外部の「反応に答えてしまう」ことだ。”

”それに用いられていることが「二人組精神病」の疾患パターンなのだ。”

感応精神病、またはフォリアドゥ (仏:Folie à deux、フランス語で二人狂い)、精神障害の妄想性障害 の一つ。

人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有することが特徴である。

また複数で共有する。誘導妄想性障害などを用いられる。一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有することが特徴である。
健全者(危険因子)が疾患パターンを用いり、介護する環境(反応者)過敏反応状態を形成できる。

疾患者に反応しなくてはいけない環境が強いられるのだ。知らぬ知らぬうちにこれはストレス値が劇的に上げられ、緊張状態をようする環境を作り上げられる。(レベル別に管理が可能)

外からの反応に「敏感になること」内向的発言に縛りがもたらせられる環境を作れるのだ。これによる環境の創出は世界大戦時と同じ環境を作り上げることが出来うる工程なのだ。

昔で言う日本の「風刺隊」なのだ、これは良くも悪くも「神経レベルを敏感にさせる」贅沢だ!これはダメだ!日本の恥だ!悪い意味で同じ思考を共有させられるのだ。

精神的に疲弊させていくことと同じ流れを構築できるのだ。ストレス値が普通の4倍、ストレスレベル4の環境下を作りあげれるのだ。

これはやはり共産的な強制思想の背景なのか軍による統制がしやすくなる目的も込めれていたと言うこと。個人の意思の拘束を作り上げていることに繋がる洗脳方法なのだ。

個人主張がないと、主張者にとって好都合な環境ができる、そもそも目的があって洗脳があるのだろう。コントロールしようとする人間が、目的によって既にコントロールされているのだ。

弾圧的な奴隷精度や植民地の創出を現在に創出することは難しく、その環境下を掌握する過程において、トップダウン的な環境下を好むとされる。


これらの症状の回避方法は、距離に比例することなのだ。
 キーワードは、「求めてくること」

トップの優位性による環境とは、ダウンの在り方を「求める」のだ。いつもダウンの環境は不利になりやすい。優劣が変わっていく傾向や指標や指針、信念や概念の「無効化」。

何故「必要なのか?」いつも考えなくてはならないのだろう。

そして「何を持ってしてその心を突き動かすか?」その「信念」とは何か?

自身の心から頭を洗練していくことなのだ。自由精神の迫害から起こる傍観的思考、劣等感からくる自由にたいする弊害など、本来は、卑屈になってられないのだ。
またこのような流れを論文などで警戒する流れも国内または世界各国あるぐらいなのだ。このような事に興味を持ちだし早15年以上やはり「平和の死守」とは難しいものなのだろう。

今にはじまった訳ではないのだから最後はいつも「心の良心で考える」こと。物質価値観や大衆価値観であれば不安は解消されるが、いつも集団心理が活用さる事を「盲点」として肝に銘じることなのだろう

いつもどんな時も「信念」を持ってして、その心で立ち向かうことから始まるのだろう。


「洗脳」とは、環境や因習、習慣を利用して逆手では無く「癖」知をらぬ間に用いられる。ここが大事なのだ。

賢い国ではより甘い蜜でコーティングされながら長期的で行われれ年月とともに「性格」になり、習慣になり、風習になる、集団玉砕の傾向なのだろう。これが怖いのだ。大衆心理に働くこと。
また洗脳の強化されていく基礎的タイミングは、いつも”恐怖の出来事の後に行われる事が多い。”


それでなければ「人間は本来どうあるべきなのか?」問われる時だからなのだ。

「信念」と「団結」いつも良い方向に進める集団心理でなければならないのだろう。

普遍的に偏った思考や性格などを目の前にすると、相対する自身の在り方が大事なのだろう。

やはりいつも人に釘を指すのではなく、自身の「心の在り方に揺るがぬ釘を刺さなくてはならないのだろう。」

マインドフルネルなどストレスがパフォーマンスを下げる事に意識が向いて来た事を思うと、少なからずこの国も見捨てられてないのかなと思う。

これらの根底の考えは本来日本にあったものが逆輸入されて来ている事は、やはりこれからは大局の流れと密接な関係なのだろう。

自発的に良い意味で善し悪しを判断できるようにならなければならない事は。只々「顰に倣う」だけは、自由意志で生きれる時代では只々足をすくわれる事になりかねないのだろう。

自分が外部に反応して卑屈になってるだけではなく、自分が自分に落ち着かなければならないのかもしれないことを気づかされる流れである。


そういう意味では坐禅や瞑想や、マインドフルネスなど環境によって、使う言葉や主体内容を理解し、上手に取り入られていることで宗教観や洗脳感なく現代社会で用いらる面では、言葉やジャンルの垣根なく広まっているのかなと思えるこの頃なのだ。

もう一度言うが、やはり「情報社会に頭を釘づけにされるのではなく、いつも自身の揺るがない心に釘を打たなくてはならいと言うことなのだろう。」 

心で見渡す。人を観て心で生きている人と、只々頭でだけで生きている人がいる事は確かなのだ。

どんな環境にも身体や心はしっかり良し悪し反応はしているのだろう。これらの外部にイライラすることなく落ち着いた毎日の為にも精神衛生面の回帰や精神の豊かさによって、より頭では考えれない「心の信念」の回帰が求められていることと言うこと、それはこんな時代だからこそいつも世界に引けを取らない「強い心」でありたいとふと思うだ。

関連記事

  1. 「インバウトの波に脳が乗れるか?」についてふと思う。

  2. 目標を達成する為の「祈り」についてふと思う。

  3. お礼とアーシングの旅に

  4. 観えない未来の「影響」についてふと思う。

  5. 「自分らしさに必要なもの」にふと思う。

  6. 「心底強くなれる健康の力」についてふと思う。

  7. 「下降食品」についてふと思う。

  8. 「補う時代」の課題についてふと思う。

Translate This Blog

最近の記事 おすすめ記事

ARCHIVES

error: Content is protected !!