「世界のバランスの本質」についてふと思う。

過去2020年4月18日に書き留めていた、記事をピックアップしています。

世の中の出来事を調べていると、いつも大局的にものごとが進んでいるようにも思えるのだ。世界的に感じ取れる時もあれば、国内の中で、何かバランスを計るように物事は進んでいるのだろうか。 東と西、北と南、陰と陽、大局と小局など、何故か必然的に物事はいつも表裏一体なのだろう。

その流れを観ているといつも思うのだ。

特に最近のこのコロナが世界各地で引き起った出来事に対して、どのような出来事が表裏一体として起こるのだろうか?

特に”ショックドクトリン説がこの様な大局に対してのバランスなのだろうか?

このコロナ騒動で、世界政府の全体主義が構想されつつある話題ではなく、もはや発言が浮上していることがイギリスで話題になっているのだ。

「世界政府」「世界連邦」と言う言葉を、イギリスが先陣をきって発していることに、どのような過程と未来があったのだろうか?

漫画でお馴染みの「世界政府」なのだ。

世界各国、ショックドクトリンを思わせる活動が必然と行われ、それぞれの顔を伺えるのだ。


事実偶然にも国内でもこのタイミングでデジタル通貨による給付が話題になりましたが、誰も思う「このタイミングで」って思うこと。 必要な優先事項? 最優先であるかどうかではない思惑とは、「ショックドクトリン」の特性なのだろう。


このデジタル通貨と言う種類にも沢山デジタル通貨の特性があり、実用に向けたデジタル通貨があったと言う説が浮上したとされる。

特に特定の権限者によって発行された通貨は、取引データが追跡可能なデジタル通貨を導入されると、全てのやり取りが監視され、政府にとっての反乱分子や都合の悪い存在はデジタル通貨を使用できなくさせる措置を行えるようにもなる事らしいのだ。


それゆえに何かあれば、この先法案が可決されれば遠い将来差し押さえ得れる前提の通貨が発行される事もあると言うことと模索されている。
導入されれば追跡可能なものになる可能性が非常高い上に、既に中国では、デジタル通貨導入によりスコア管理がされ、スコアが低い者には「航空券の発行が出来ない」「通貨による決済が出来ない」ように既にAIにっよて全て管理されてるとのことなのだ。

紐づけされる前提においては、「マイナンバーカード」とは世界では共通認識であり、国内ではこれらにおいて初めの第一歩とされている。


これからで言えば定期のワクチン管理もされるのか?と思ってしまうのだ。ワクチン摂取がないと旅行に行けないなど。

”キーワードは「管理」になりそうだ。映画や都市伝説的でオカルト的な感じだが、現実味を、帯びてきてること。”


この様な機会(災害時)に表向きとは違い、別の意図を行う事をショックドクトリンと言えるのだろう。

「感染(災害)に漬け込む」こととされている。よって災害や戦争などが起こった時、特定の考察を張り巡らせショックドクトリンを専門に取り扱っている専門家や記者なのが世界で存在しているのだ。

例えば中国による大量のマスク😷の導入や、株価暴落による国外資本による企業回収や土地や資源の回収、他国管理下にされる事を懸念されているが、この機会に現実に起きていることなのだ。

実際に知識として、更に数々の過去のショックドクトリンを調べれば解る話だが。既にこの日本でもショックドクトリンが行われたことなのだ。

「不安」「心配」「ストレス過多」時は、特に付け込まれやす状況と言うこと、判断能力が落ち、自分のこと以外、最良に判断が出来ない状態であること。

この種の洗脳とは、戦時中に行われた基本的な方法としてストレス値を上げると言う事は、基本的に意図的に行われていたと言うことなのだ。
ある意味本当に「個」の自由意志が薄れていくほど、「管理」されていくのかと思うのである。

何故なら。古い考えは捨てて新し考えとうたわれた教育ほど、正しいと思われる。だが今やアメリカで習われていることは、戦前日本で習われていた日本の教育そのもの古事記や日本書紀や君が代、または日本人が行って来た逸話などがアメリカ教科書にこぞって紹介されているのだ。

どう言うことか理解できるだろうか?

これからは大きな流れをしっかり把握し、大局より私欲か、私欲より大局なのか?色々流れを見ていると考えさせられる場面が浮上しているからなのだ。

大小対局に与える影響とは、いつもフラクタルに個人単位までその対象なのだろう。世界の悲しみは、個人の悲しみを生むよう図られていたらどうだろうか。

望むことは、世界の幸せは、個人の幸せに繋がることなのだが、実際はどうだろうか。時列に幸せを積み重ねているだろうか?

例えば「利権」と言う大局の為に、個人の尊重する考えがなくなる時など。これは大きな幸せにより、個人の幸せに繋がるだろうか? いつ考えなくてならない。個人のストレスを回避する日々は、個人の幸せが訪れるだろうか?どこかで幸せになっている者がいたらどうだろうか?


日本人にとって本来は「どう有るべきか」そのブレない目線で個人個人判断していかなければいけない時代でもある以上ただ表面だった面を指でなぞるだけでは、その真相や本質がもたらしてくれる幸せや不幸からその身を守れなくなるのこともあるのだろう。

実際ストレスに追われるとは、望んだ自分自身だろうか?ストレスが人生の旨味?なのだろうか?

個人個人その判断が大きな大局にとって好都合になったり、また不幸になったりとその存在価値が試される時代と言うことなのだろう。

「みんなに足並みを合わせたら、間違いない」と言う言葉が通用した時代から、自由に長けた時代を切り引いた今その道は自分で切り開かなくてはならない現実に出会う事が多いのだろう。「みんなに足並みを合わせたら、間違いない」と言う言葉に付け込まれた時代背景がいつも誰かの都合によって表裏一体機能している時代と言うことなのだろう。

また例えば個人が個人を思う事が無くなればどうだろうか。
楽だから流行りだから、知らず知らずにもはや「癖」から性格に、性格から人格になる流れ、考えなくても今を楽しめる人間であるが故、考えなくなる人間になる日、人間の機能が壊されていく日もくるのではないかと思ってしまうのである。

個人が個人を思う人間の基本的機能を機能しない時、人間としての与えれる幸せも少なくなるのだろう。もたらすものに幸せは自ずともたらせる人間として生きる法則なのだろう。

人間の同じく不足を巡らせば、不足を補う日が来る。大局に不足を拗らす流れが起きたとすれば、必ず不足を補わくてはならない日もや出来事もやってくるのだろう。大局だけが優位ではなくいつも「個人の在り方」が大局にも影響を与え続けてきた世界なのだろう。

知らず知らず、身体に悪い物と解っていても、食べなくてはいけない時や身体に良いとされる物が何もない日が来るのか、これも誰か大局の為にと思ってしまうのだ。全くそのような情報を知らない。教えてもらっていないなど、何かの不足を本来良いとする形態にしなくてはならないのだろう。

ついもどう在るべきか考えなくてはならないのだろう。誰かのストレスに惑わされる姿ではなく自分がどうあるべきか。

こう言う言葉聞いた事がある。

「時間もある、お金もある、物もある、権力もある、経験もある。命で遊ぶしかないのだろう。」と言う言葉なのだ。

身の毛もよだつ言葉もこの現代の格言として存在するほど、いつも誰かの夢の中で生きている、生かされているようにも思えるからなのだ。


コロナは、世界の国民が心配している話題だけに、国内情勢を含めコロナ事態がイベントでないことをただただ祈るだけである。

いつも自分がどう在るべきか考えつづけるだけなのだとふと思うのだ。

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