「自分らしさに必要なもの」にふと思う。


人間らしさに生きる事とは?なんだろうか。


人間らしさは、自分らしさであって初めて自立と立命の域に達する、そうで在りたいところ。

自分らしさに生きることでとは、また表裏一体、良いことも悪い事も起こりえるなら、いつもその副産物をどうするか、その糧が欲しい所なのだろう。

何故かなりたい理想の世界え飛び立つ準備以上に、滑走路には沢山の障害物が多いからなのだ。夢を見る目は高く気高いものであっても、その障害物に向き合う事をはじめから忘れていては。。。大変な人生になるからだろう。


抱えきれない程の幸せな人生なら、何事も問題が無くなるはずだとそう願いたいものなのだろう。

夢の様な理想を描き今日も頑張る為には、その背後にある副産物をいつもどうするか。

夢の様な理想の為に只々頑張ること以上に、凄く身になるお土産がいっぱい人生から頂けるなら良いが、

特に「僻み・嫉み・嫉妬の心 そして愚痴」といった人間らしいものについてふと思うのだ。 生きている限り人が創りだす「十悪」のうち最初の3つが、「貪欲・瞋恚・愚痴」の三毒の煩悩とされ。


その中でも特に恐ろしいとされるのが、
「愚痴(ねたみ・そねみ・嫉妬の心)」が最も恐ろしいと解釈されているのだ。


 欲が満たされなければ怒りになり、さらに怒られても喋ってもない相手に対して勝手に、妬み・嫉み・嫉妬の心が湧き上がるものとされている。


 根底には、「自分よりも」「人よりも」と言う気持ちが第1にあるとされるのだ。その為、すでに「自我」のコントロールが効かない状態で有る事とされているのだ。 

「過ぎた気持ち」「過剰」「コントロール不能」実は正常な頑張りの裏にはいつもこのようなマイナス要素がいつも見え隠れする。 これらを用いて頑張る事と、用いる事無く頑張る事では大きく違うのだろう。


自我が反応する範囲として、感情が引っ張られている状態を指し、相手への感情は思い付くが、自身への感情は無い状態とされるのだ。


人より長ける気持ちがあるのであれば、この様な状況「十悪」と向き合う自身への感情 を、どうするかなのだろう。
いつも「感情を使いこなすこと」が大事と言うことなのだ。

何故なら、嫉妬の心は原動力にもなるのだろう。だけど自身への嫉妬する対象とは、多かれ少なかれ、沢山の情報が有ることなのだ。


嫉妬の先は、「いつもあなたの理想なのか」どう言った動機なのかが大事とされているのだ。


何故なら、「自分よりも」と思うのであれば、愚痴で終わっていては無いも生まれることない立場として、何もないところに留まることを示す。

あの人を超えたいから、もっと頑張ろう。と自負に至るところ、必要な情報として得る解釈・理解する感情が無くては原動としての言動の動機が正しく身に返って来るもの歴として差があるのだろう。


あんな素敵な家に住みたいから、努力しようと思うのか。あの人の様になりたいから、何が必要なのだろう。と解釈する所。それでいて理想とする物事への知識や情報が必要な事なのだ。
 そうであればどうするか?いつもその在り方が大事なのだろう。

人に「自分よりも」と思う嫉妬する事以上に、「嫉妬できる人が100人または、1000人居てくれる」そんな環境こそ、望む理想とする「知識」や「情報」が沢山ある事に喜びと感謝をしたい所なのだろう。

人である為に人によって磨かれる。人は石で磨かれないのだろう。よって自分たちがその理想とする物事になり得る道に、人である為にさららなる人から学ぶ事がより近い理想へ導いてくれるきっかけになるのだろう。


本来、「自分よりも」と思うところ、嫉妬するものごとさえ、避けていては、理想や創造したい物事を観る目も肥えないのだろう。

それでいて長けるのであれば、またその様に”知慮に長ける者”もいるのであろう。
そもそも人とは、生まれた時から時代や月、日、時間までオリジナルに育つ様に生まれてきているのだ。「違い」の解釈に掛ける事は、逆に”知慮にかける話”と言うことになる。


人であるが故にどうであるかは、「その感情をつかいこなす」者であり、人は「生まれながらにして、既にオリジナルに創造されているのだ」


オリジナルおける法則があって。オリジナルだけの課題があり。また互い違う課題に気づく事が必要であり。それによって更にオリジナルが磨かれる。オリジナルのステージ(次元)がそもそも互いに存在している世界なのだろう。


「違い」について解釈に必要なワードがない状態であるが故に、副産物が引き起こすのであれば、1つ回避方法があるとされる。それは「嫉妬や僻みは、距離に比例すること」なのだ。

オリジナルである事を理解する時、すべてにおいての副産物は、「違い」を解釈し始めることから腑に落ちるのだろう。


どうしても「十悪」と向き合い考える事があれば、“距離に置き換えて考える事”が世界共通の解釈とされている。


しかし、何にしても愚痴の心から起こした行動では、本当の幸せは起きないのだろうと思うところだ。愚痴は悪因とされているところ。人であれば人間の一部として当たり前と解釈する者もいれば、またその逆説もいつも存在している。


感情をコントロールする為に知っておく事として、愚痴というのは=愚かな知恵と言うこと。
「因果の道理」が分からないから起きる心であるとされているのだ。ようは「邪見」の世界的なのだろう。仏教的概念もなく話しているが。


そもそも幸せを掴みにいく姿勢ではない状態であり、良くなる原因も解らず、先の結果も解らずで居ると、人がどうなるか解らないでいる事がフロー状態に至る。そうして他人を自殺を促していることすら気づかない世界になったりするのだろうか。


そろそろ時代的にアンチが育つ過程が、研究によってその傾向と思考と対策や補足方法など補って来ても良いと思うのだが。
特に、SNSの文字だけの世界に過剰に反応してしまう時代になったのも、その原因と結果がいつもあることなのだろう。

多くの多様性が求められる時代背景にまだ精神的な多様性を深く表裏一体理解することで、起こりうる出来事を短絡的な解釈に至る、そんな思考背景が少しでも無くなることがまたオリジナルとして生き生き切磋琢磨出来る環境となるのだろう。

多くの不可能や不幸を払い、自分らしさであって初めて自立と立命の域に達する、そうで在りたいところ。

また嫉妬してしまう事が過敏になって来ている時代背景には、知慮に長けるか、知慮に欠けるか、その感情を使いこなす事で変わる世界が、いつも救いの手は沢山あると言うことなのだろう。


 知慮は禍福の門戸なりと思いたい所なのだ。

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