たった一度の「人生の限り」についてふと思う。

こうして「ふと思う」事をあげていると、”ふと思い過ぎやろ”と、言われる事もあるのだが、何故またこうして、アップしだしたと思うと。


限りなく好き勝手生きてくると、更に人生そのものが「もったいなくてしかたなのだ。」

「好き勝手」生きる事で良くも悪くも様々な経験を通じて自分の価値が観えてくるからなのだろう。

「限りなく無限」なら良いが、人生一度だけ「限りあること」と思ってしてきたこととは、正解を只々他人に決められるのでは無く、いく通りある正解を自ずからある事を知る事なのだろう。

いく通りある正解の中から自分だけの答えを信じて生きる為に「人生はもったいなくて仕方ないのだ」

よく他人を干渉しては、文句だけ伝える者が居るが、全く自分の人生を生きていないのだ。そもそも「干渉」と言う時点では、その1分たりとも他人に時間を差し上げているのだから、自分の人生がそのもより文句以上に開花する事は到底ないと断言出来るのだ。

これもう人が生きる上での「宇宙の法則」なのだろう。


本来人が生きる上では、こうしていく通りある答えを、勘違いされたり、誤解され、妬まれたりと、時間を差し上げてくれる者によって、人生の価値を変えられることがないようにと思うところなのだろう。

イエスの言葉にも似ているが「そのような者たちは、ただただ知らないだけなのだ。」


どの人生も価値があるのだ。


人生何が起きても、”なんてないこと”ばかりなのだが、なんてないモノに悩まされてるヒマはないのだろう。

与えられた限りあるものを使って今日も明日もどう楽しくむか、他人から違いを知って、数ある経験しなくては宝石は輝かないのだ。「違い」によって磨かれるのだから、「違い」に揉まれ叩かれそして自分が観てくる。

それこそ人生が生きる喜びであり、自立の果てにある立命する人生と言えるのだろう。


つまり、遠い昔から、本来人間は「平等感」をあたえられていて、人間の機能に不公平はないとされる。それは限りなく人の手で作られた社会秩序の中では無く、限りある宇宙の法則が万人に与えれた「生き方」なのだろう。

万人が共通して「人として宇宙人」である為に「宇宙の法則」はいつも限りなく「平等に与えられている」と言うことなおだ。

一生に与えられた「環境」や「課題」は違えども、一生を終えることも、最後には皆経験する「死」まで平等だとすれば、人生一度と思って生きている事も本来皆平等に与えられた本望な価値なのだろう。

「人生に輝きを忘れたら飛び出す勇気を使い」「大いに違いに揉まれる事で充実した人生を歩めるのだろう。」

「違いを見失えばそこは輝きをわすれた社会秩序になるのだ」いつも「宇宙の法則」の中で生きれば自ずと社会環境においても輝きの自分で生きていられるのだろう。


何に思い入れして生きるかは、千差万別なところだが。「限り」を身近に感じる方法がある。

「一生を1日に例えるという考え方なのだ。」


”最近では「人生時計」という考え方が、人間の一生を1日に例えた良い例なのだろう。”


人生時計は、「自分の年齢を3で割り、その数字を24時間制の時刻に当てはめてみる」という。


自分の人生の現在の時刻を知ることができる。また人生の残りの時間を知れるのだ。
例えば、今が45歳であれば、45÷3で15時。つまり、人生を1日に例えれば午後3時にあたる。
さらに今が30歳であれば、30÷3で10時、つまり午前10時なのだ。30歳になったときに、もう年寄りだという人が多いのですが、実はまだ午前中なのだ。
ちょっと前まで、定年年齢として多かった60歳は、60÷3で20時、午後8時だとすれば、仕事を終えて家に帰っても良い時間と思えば人生のあり方を考察できる。

第二の人生だって十分味わえるのだが、そこまでどのようにメンテナンスを行って来た人生によっては良くも悪くも第二の青春を失う事になりかねないのだろう。


現在の定年年齢である65歳では、65÷3で21時半、午後9時半にあたり。ちょっとした人生の残業という感じだろうか。多少、疲れても当然で、そろそろ毎日明日にやり残しが無いように考えらる時間帯なのだろう。
このように人生時計は、自分の年齢について、その頃合いを考えるのに有効な方法なのだろう。こうして「限り」を大切にすることで、人生の深見がおもしろい。

観えない人生時計から、自身の限られた「命の価値」を知り、その灯が燃え盛り続けれる歩を創造してもらいたいものなのだろう。

精神性を重んじる事は、より高潔な人であるステイタスであり「人」である事を表現するにあたっては、重い話でもないのだ。精神性を重んじて人生が巡りだすのだろう。重い話は責任だけであり、人生はより深く生きている方が楽になり「心技体」とも軽くなっていくものなのだ。


また、一生の「限り」として、笑って生きている間はどれくらいなのだろか。
子どもは1日に平均400回、大人になると1日あたり平均6回笑い、女性は男性に比べて笑うことに積極的で、これを社会生活でも柔軟に活用しているなど、年齢や男女による笑いの違いについても触れている。

これを単純計算すると、人の一生を80年と考えた場合に、現代において合計で「22時間30分」しか笑わないとされる。

更におもしろい事に、中・高校の卒業アルバムに笑顔で写っている人は、無表情な人に比べて50年後、健康で幸せな生活を送っていることも統計的に証明されたとしているのだ。おもしろいのだ。


客観的だが「限り」を数字化すると、分かりやすいのだろう。どういうことかというと。
例えば、1年間に食べている食事の回数は、1095回だったり。
こどもが10歳までに食べる食事の回数は、最初の1年は授乳や離乳食なのでカウントしないとしても、9855回。そして、日本人が一生の間に食べる量は、女子栄養大学の五明紀春教授が出している数字によると米は「6トン」これは「ご飯11万杯分の量」

牛乳が3.4トン。牛乳びん1万7000本分に相当し、鳥獣肉類が2.2トン。以外や以外の牛は約6頭分だという。


人生で焼き肉を食べていても、たった牛6頭分なのだ。人の一生涯摂取するカロリー量は、原子力発電所で発電出来る5分間に相当するエネルギーを摂取しているとされるのだ。


また価値のある人生で大切なことは「出会い」なのだろう。

今、人と出会える確率はと言うと。人と人が出会うであろう確率を数字にしてみると…人生80年として接点を持つ人数は生涯を通じて 約30,000人仕事関係と同級生や近所、その内3,000人と出会い 30人交友関係らしきものを経て親友基本的な親友関係約3人となるとされるが。


「日本に住んでいる人口を元に同士で目の前にいる1人と出会える可能性は…
0.00000000000000006%
とも言われれば、ほぼ0%の確率なのだろう。」

今世において、この世代に生きて出会えたことの価値からすれば、来世で出会える確率は0%と言うことなのだ。


「袖振り合うも多生の縁」という言葉はご存じだと思うが、道を行くとき、見知らぬ人と袖が触れ合う程度のことも、前世からの因縁によるという意味から、どんな小さな事、ちょっとした人との交渉も偶然に起こるのではなく、すべて深い宿縁によって起こるのであると言うだけに、人生の出来事1つ1つ考えるとおもしろいのだろう。

他人の人生は目を瞑っていても進むのだから、無駄に他人に悩む事無く、迷いに悩む事無く、いつもそんな悩みより、自分と向き合う事の大切さや向き合う難しさに挑むことなのだろう。


一度きりの人生、毎日尽きない悩み事に、時間をさくより、「限り」を知って楽しく何事も経験し、どう人生を創造するか「万人平等の与えれた人生を楽しむしかないのだろう」とふと思うのだ。

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