「情」と「条」でスキルアップすることについてふと思う。

「情」に生きると「条件」が生まれるとあったが、実にお尻に「情」がつく、言葉とは、実にその数ある言葉の本質以上に「条件」に振り回されることが多いのだろうかと思うのだ?

最近、動物にもついつい「情」が沸くのだが良いのか?悪いのか?
これは本当の所、判断としてはどうなのかとふと思うのだ?


猫をかれこれ8匹飼ってしまったり、または子猫を助けてしまったりと「情」に振り回される場面を俯瞰していると何をしているのかと思ってしまう時がある。自己欺瞞なのか、保護猫の為になっているのかと?

人の性質上、「情」と言う言葉は、切っても切り離されないものだと思っているが、人生を良くも悪くも変貌さしてしまうだけに実に奥深いものがある。

単純に「情けをかけてはいけない!」と思うだけで、何故駄目なのか?

そもそも良く聞く通り「情」は「人の為にならず」とあるが、
他人のためになると思われる事を、その人の心情(お尻に「情」がつく言葉)になっていろいろ面倒を見てあげる事、答えてあげる事は、その人の為になるだけではなく、
人間関係を良好にすることになり、結局は最終的に自分の為になるとあるが、やはり本来はこの教えなのだそうだが。

最近会話の中で、この言葉を逆に解釈し「いろいろ他人の世話をやいたり、気を使ってあげると、その人を甘やかしてしまうから、結局はためにならない」だから「情けはかけてはいけない」と言う文を観てふと思うのだ。

「情」があるからいけない?「情」ないからいけない?

 つまり、「情け」をかけると逆効果となってしまって、その人の為にならない、したがって自分のためにもならない、というように受け取っているのだが。
このような面倒な状況が起こる場合に、自分と言う優先順位をしっかり見失わない言葉として理解は出来るのだが。

しかしながら、
この言葉には「情が仇」というものがあるだけに。

 現実には、「情」とは、良くも悪くも、はじめから二面性、どちらにも働く真理のようなものがあるのだろう。
そこには「情」が良くも悪くにも作用するにあたり「条件」が発生するとされている。

人の世話がすきで、わが子のように教え育てた人に、結局ひどい仕打ちをされたり、あざむかれたりすることも少なくない世の中としては、
俗に言う「飼い犬に手を噛まれる」などの表現もあるだけに、つまり相手の為に手塩にかけた人物でも恩を仇で返されることは、世間では往々に見られていると言うことなのだろう。

若い人が、「情に生きる」ことを逆に取って、良いか悪いのか一極を求めて解釈するのも無理がないのだろう。
現代においては、噛まれるくらいなら「情」などいらないと思っている方もいるのだろう。

保守的捉える姿勢と、献身的に捉えている姿勢両方やはり垣間見れる話だとすれば、
両局面をもつ人は、「情」と言うスキルを、スキルとしてしっかり使いこなさなくてはならないものなのだろう。

 人に情けをかけることが悪いのか?良いのか?ではなく
自身で「情」と向き合う時に、確かめる時の基本的な方法があるとされている。

 ①相手をよく観て情けをかけることや。
 ②献身的な情としてお互いの為に、かける方法をよく考えることや。
 ③また自分自身の生れつきの資質や立場を逆に反省してみるとあるが。

この3点から「情けについて」俯瞰して見えて来るものがある。

 まず第1に、そもそも「人を見て法を説けというように、同じことを言ってもそもそも効果が人によって有る者と、初めから効果が全くない者とでは、まったく違うということなのだろう。

つまり、相手側が初めから利益を求めたり、裏切りを予定しているような場合は、下手に好意(情け)を示して努力すれば、逆手に取られてしまうのは当然の話とされ。
また、意志が弱く、依頼心の強い人に情けをかければ、冒頭で話した「情けが仇」になることが多い訳であり。
多くの人はこの経験者から「情」は良くないと否定意識と認知しているのだろう。

 第2に、相手に便宜を与える方法や手投が誤っている時は、
“本人は人の為になると思っているのに”、逆に恨まれる結果に終わるような事もある。
あまり押し付けがましい態度で恩をきせたり、他人にも分かるようなあからさまな方法は、情けをかけられた方の反発を買うことなどして、この反面性が伺う事にもなりかねないのだろう。

「情をかける」ことにたいて、献身的な「情」とは、「お互い」が「情」の世界として認識しているかどうかなのだろう。

 こう思うと必要最低限に、ほんとうに相手側が欲していることを、あっさりと、他人に知れないような形で与えるという配慮や方法も必要なのだろう。

 第3は、人生を送る基本則の1つである「己を知る」事とあるが、
 お人よしや、いわゆる好人物として世に通っているような人の場合は、「おせっかい」とか情けがいつのまにか「またあの人の趣味が始まった」ぐらいに受け取られ、
その人の良さ真意は伝わらないとされるが…

また立場としておもしろい事に、立場が変わると、
地位の高い人や、利権にかかわる権力者が「情けをかける」ことは周囲にあらゆる配慮を要す事と同じとされるだけに、
両者の立場として、求むものの本質をしっかり理解しているかどうか、そこには、もうひつの「条」、「条件」が発する関係に繋がるとされているのだ。

ビジネ社会において、配慮あるコミニケションの根底には、「情」が発生する形式から人の行動が良くも悪くも伺えるからなのだ。

それは個人の関係としてなのか、社会的立場なのかによってもその「情」の使い方として、相手の受け取り方次第では、常にどちらか(プライベートなのか社会的)の立場が優先的にあると「情」ではなく「条」として「条件」のある関係をつくってしまいやすいとされている。

「情」にみえた「条」の泥沼化なのだろう。 「条件」を「情」で受け取ってしまう関係や「情」に対して「条件」を備え付けるなど。

「情」から「条」の関係になるのだ。

本来「情」を示されたらあなたなら、どう返すだろう? 返さない?
社会的立場の方の配慮として、「情」と「条」の使い方とは本来魅力のあるものなのだろう。
先ほどもお話した様に、立場によて発生された「情」は、受ける立場によっては「条件」になってしまうと言うことなのだ。

逆手にとられると大変でもあるとされ。
本来使いこなさなくてはならない「情」は、両者の受け取り方が違うと「情」が「条」として、「条件」が発生した関係となっていくとされるだけに、
立場によっては、片側の使い方だけではやはり良くも悪くもなる二面性の性質があるのだろう。

自身の経験からしても、いつも社会的な立場がある人をふと思うと、このバランスがとてもよい気がするのだがやはりそうなのだろう。
献身的なスキルとしてやはりなかなか、「情」は持ち出されないが、その中に奥深いものがある。

やはりその一線を踏まえている姿勢にいつも「礼」があるのだろう。「深い情」を示せば「条件」として受けてしまわないように、「礼ではじまり」「礼で終わる」方もいれば
「尊重ではじまり」「尊重で終わる」いつもバランスの取れたコミニケション能力が勉強になるのだ。いつも不快のないコミニケションなのだ。

今ではよく「要件」で終わる、「条件で終わる」「主張で始まり」「主張で終わる」とされコミニケションに不満を募らせる潤滑油が見当たらない事が多いのだろう。

「情」だけで、実に両面良くも悪くも伺えることわざが沢山あるだけに、現代において表面だっては自分を損するものだと思っている人も多いのだろうが、
その使いようしだいでは、人情味のある、実に深見のある人生としてコミニケションが円滑に回り楽しいものが観え隠れしているのだろう。

同じ「条」なら、単純に「情」を逆手にとらえてるだけでなく、スキルや献身的にどんな逆境や苦難の時でも

「情」を忘れず ”一条の光” となって自分の身になるものだと思いたいものだ。

また単純に「情」に浸るだけでも、いけないものなのだろうとふと思えるが、奥深く現代のコミニケションスキルに必要な潤滑油なのだろうとふと思うのだ。

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