目先の価値と将来の価値についてふと思う。

今現在、目の前に大きな困難や判断が必要とする時、いつもどうするか?

困難は将来に続く人生の副産物なら、解決策は自ずと見つけ無くてはならないのだろう。

また人生において、何かにのめり込む為に大切な事は、「好きな事」が重要とされている。「好きな事」は、どれ程の価値観で捕らえているか?

誰でも好きな事を見つける事に専念し、また困難に立ち向かっている事だとすれば、大小関わらずその一歩を踏み出している数は、経験として実に多いのだろう。

毎日、今を楽しむ為や将来の為に「判断」の連続なのだとすると、大きな一歩ほど、「プライド」や「常識」または「他言」などによって「その真の価値」を、見失う事が多いはずとされている。

人生を変えたい、または変容を遂げる判断の時程、その「真の価値」とどう向き合うか。

いつも今現在目の前に「あるもの」「ある事」「あるお金」「今いる人」は、今より将来の方が「価値」があるのだろうか?

それでいて、まだ見えない未来を予測する事は、魔法ようで不思議とこの人類が発展する中で行って来たものなのだろう。

または、将来の事より現在の為だけに価値があるものか?と説いただしたくなる。

数ある目の前の「価値」をどういった物差しで計るかで、将来人生は大きく変わってくるのだろう。このブログのプロフィール欄に記載しているように、目の前のチャンスの存在は、あたかもチャンスだと向こうから手を振って来てくれるものであろうと、そうでなかろうと、チャンスに変えれる、変容させれる自分でありたいと思えるからなのだろう。

例えば特に実社会においては、今日のお金は、明日のお金とその「価値」は同じものだろうか?

拝金とは実社会の経済において、本来その要素を持たないとされているが…何故か? 別の機会の為に割愛しておこう。

そう思うといつも人生において「在り方」を唱えたくなる。自分の思考は乱れた資本主義に答えてしまった思考なのか?

それとも自分が軸となり、心や身体、魂までも震える充足感に満ちありふれた思考判断で成り立っているのか?

例えば、投資や株式などに置いては、その「価値」は将来、まだ見ない未来において計り知れないほど無限の「価値」を算出出来るとして、この業界は多くの人にチャンスと唱和してる。

それでいて、なぜ多く人はなぜ踏み出せないのか?

それは「リスク」が全ての「真の価値」を塗り替えてしまうからなのだ。

これは人生においても同じ事とされている。真の価値を低評価してしまう根拠の中に先攻して、頭の片隅から囁くのだろう。

人また傷つけるものに「リスク」を見つける事に優れているのだ。「真の価値」の評価は将来を考慮するより、全てを考慮する為に全てのリスクを”塗り変える根拠”を見出すものなのだろう。

チャンスをより生かす為に、自問自答する最大の問いかけなのだろう。今現在に置かれた状況においてリスクと、どれだけ向き合っているかがより現状に現実味を増すとされている。

さらに様々な未知な出来事を、より質の良いチャンスに変える為に、現在よりさらにステップアップを図り、その「価値」以上のものを創るには、そのもの事に専念出来る機会(チャンス)として、まず「自分らしさ」そして万人平等に与えられた「時間」がそのもが、その人生において「価値」を評価してくれる事とされている。

幸せや困難や判断を含め人生に与えられた時間「約30,000時間」とされ、生きる上で限られた「価値」なのだろう。それでいて困難は、誰にでも訪れるのだろう。

今誰もが困難や不満の逆境にいて、チャンスの女神すら訪れまいと、念じしまっているなら、それはチャンスの女神がもう既にあなたのそばに来てくれているのだろう。

昔アレクサンダー・セカークと言う冒険家は、無人島で遭難(困難)に合ってしまい、セカーク以外全ての物、人、お金は海に消えていたのだ。命だけがこの世に残っている状態なのだ。

彼はその絶望な状況下に「究極の判断」をしたのだろう。ここで生きたえるか。…希望も現実社会で夢も作れない孤独と諦めの世界の状況だとすればどうすだろうか?

そもそも選択肢があるようでないのであれば、あなたならどうするか?お金が無く、人材も無く、環境もない。

彼は実際に4年後に発見された時には、十分な栄養と脂肪に加え、酒、タバコのない生活でより健康な身体になり、更にヤギの皮を壁紙にしたセカンドハウスを持ち、猫をペットにしていたと言う。

依存した環境でしか得られない「価値」もあれば、望まない環境においても「自分らしさ」1つで「価値」を見出だすこともでるのだろう。

「幸運」を探す人生とは、困難の先、「リスク」の先をどう「想定」するか、「”数少ない根拠から妄想すること”」で思いがけない「幸運」と出会えるものなのだろう。

遅かれ早かれ勇気持って一歩進んだ先、または思いがけないないもの程、「全ては、丸くおさまる」事だと言う。思いがけないものこそ、その「裏」には、いつも思いもよらない良い事もあるのだろう。

例えば生きてる上で知っている目先の「世界」として、既に知っている意味ですら、ひとつ変わるだけでこの世界観が変わって見える時もある。

この日本において戦前と戦後で、封じられ「言葉」として、「私」と言う漢字があるが、実は戦前までは、「私」ではなく、「和多志」と言う漢字がごく一般的に使われていたのだ。

戦前の日本人の「価値」そのものとして「和多志」として使っていたのだなとつくづく思える漢字の意味なのだ。今現在の日本人において、意味を持たない仮初めの存在と言えるのだろうか。

素敵だが、戦後封じられた言葉として今日学校では習わないのが残念なのだ。まず私、または日本人とは、または人として教えてあげるのであれば、こう教えて上げたいものだ。人を育てる心得として自分の在り方に気づける漢字なのだろう。

中身のない「私」ではなく「和多志」として志を1つみつけれるのだ。また冒頭に、人生において「好きなこと」を見つける事が人生において良いとされているが、実は「好きだけでは」人生において見つけにくいものとされている。

それは動機として”好きなこと”より「心奪われる」ものが、何より大切とされているからなのだ。

回りか見えなくなり自ずとその道、または世界観が構築され、生きる体感スピードの時間が変わるとされている。このような体感を共に堪能できる仲間と共に過ごせたなら幸せであり。また出会えたらそれは人生において祝福されているのだろう。

冒険家ではないが、これほどにものこどには、その目先の価値と未知な未来の「価値」と睨めっこする事で、より良い未来を知ることができるのだろう。

もし不満足な現状や進展において息詰まる時があるのだあれば、いつも塞がった思考やリスクに怯えることなく、将来においても明るい未来がいつもその逆境の裏に構築される時がくるのだろう。

今現在においても、将来においても自分の価値観を育てれるのなら、いつもそれ以上に思いがけないものと思える人生が、あなたの「表」の人生なら、いつも以上に思いがけない一歩先、その「裏」の人生には「幸運」が沢山あるのかもしれないとふと思えるのだ。

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