人生の美学「得の見所」についてふと思う。


人生いきていると、誰よりも「得」をしたいと思う、また何よりも「損」だけはしたくないと思いながら、誰しも人生の選択を幾度も選び今に至るのだろう。


人生で何より、「時間」を費やしたもの事のみ、今一番の結果に繋がっていることも良くある話なのだろう。


その「人生の選択肢」の違いだけに、他者との違いとして羨ましい事や、また生きる気力に変えてその中から「己の道」を更に良くしようと思い日々考察したい所なのだろう。


いわゆる「得」としたい人生なのだ。


何が同じ人生でも、その「得」としたいのか、実際にどう理解しているかどうかとされる。


それらは自身が昔からいつも思っている事だが、いつも気づいてる人と気づいていない人では、同じ物事を行っていても全然違うなと昔から思える事なのだ。


どの職業にも通じるが例えば、学歴社会をその人生の主体とすれば、学歴を使うところその魅力は何なのだろうか。

いく通りある正解の中、欲する所に必要な学歴があれば、見合った対価が保証される世界なのだろうか。


それ以上に、「得」していると思う聞いた話では、学歴を主体とした新人が入社当日には、給与の交渉をし、初日に希望額に達したと言うのだから、いく通りある正解の一部として学歴社会の「旨み」なのだろう。


仕事は与えられるだけの世界もあるが、とある業界では、新入社員からどう稼ぐか、「己の稼方」がないと面接に受からない業種すらある。


「得」していると思う世界ほど何が違うのか?各業界や業種、仕事について良く理解すべき所は、
それは「”旨味”」なのだろう。

この「旨味」をいち早く見つけ、解読できる者ほど、その「得」は特に身近に感じる事であり、また行動や思考も違って来ることとされる。


どんな仕事もその「旨味」を、確立出来るかどうか?

自身の能力を開花させるための人生であれば、人生のセオリーは不要なのだろう。人生の前半を遊び続け人生の後半をその能力で生き抜く人生も行く通りある人生のセオリーなのだろう。

音楽やスポーツ、芸術の世界や自由業の「旨味」なのだ。「旨味」を見けているだろうか?只々何も考えずに他者の人生を嘆き続けていないだろうか。

人生は流されるのではなく、予定を歩む事も事実数ある人生の正解なのだ。専門知識に長けることも、波乱な人生を生きようとも、その他者へ嘆く責任は他者にはないのだろう。いつも自分が選んで生きている結果その「旨味」を見落としている結果なのだろう。

「得をしたいが」人生に「旨味」が無い人なのだ。

「得する道だから、常識」だからだけで、人生簡単に「得」は出来ないのだろう。いつも「旨味」を見つける努力が必要なのだ。

先ほど書いた、義務教育の果てに自身の価値を入社当日に会社交渉できること、「それが出来る努力をしている」と言うことなのだ。

「旨味」を解っている人生だから、「努力」し、人生に流されるのでは無く、人生の予定を歩めるのだろう。

「得」する道を只々歩む者、「得」する道から「旨味」を見けれる者。大きな違いが存在し続けているのだろう。

出来ないまま本来主体とする立場や仕事以下に目線を向け、あいつだけズルい!とか、お前だけ得している!とか損さしてやる!とか学歴があるが、無い者に、わわざわざアンチしている者も「得」をもってしても「損」していることとされるのだ。

その主体とする「旨味」すら気づかず流して生きていると、ますますその「得」から離れ、「得」をしたいが、いわいゆる「損」なのだろう。


どんな仕事の中でも、否定された環境やルールの中から、その「旨味」を探す事はなかなかの感覚がなければ難しいものなのだろうが、考え方ひとつで、日々「得」に繋げられる事もある。

「得」は、簡単ではないのだろう。それていて「他人が出来ることとは」「嘆く」こと以上に、「努力」をしている者なのだ。当たり前の話なのだろう。「努力」がなければ、「得」が入ってくる「器」が出来ないのだろう。


例えば「旨味」を考えると。日本では考えれないものとして、イタリアの職人の世界でなどでは、マエストロなど職人の口癖で、”お酒を飲みながらでも一流の仕事が出来て当たり前”とし、その仕事を一流にこなす。「一流」の世界なのだ。

そこにセオリーはなく、人生の「旨味」をしっかり人生に寄与しているのだろう。

才能があれば、勉強しようと、しなかろうと、自分の人生の予定を組めるのだろう。「旨味」なのだ。


稼ぐ事の在り方がどうであるか?与えられていることに、囚われていないかどうか?

エビデンスの無い人生であるかどうか?その人生の「旨味」を良く理解しているかどうかなのだろう。

さらさら「旨味」を蔑ろにしている?していない?それがいわゆる「損得」に繋がるのだろうか。


同じ稼ぎ方が沢山いる中が当たり前であるのであれば、それは同じ「稼ぎ方」として見直せるチャンスなのだろ。

孫子の言葉に『智者の慮は必ず利害に雑う(まじう)』という言葉があるが。意味は、賢い人が判断を間違わないのは、「利と害」要は「得と損」の両面から物事を捉えることが出来るかどうかなのだ。


いつも「得」だけ、「利」だけでも、そのもの事の良さは実際に理解出来ず、本来「得」「利」だけ得さえすれば「得」とする所、実際には「損」に終わる結果であれば、どうあれ「損」に繋がったりしているのだ。

「損」を「得」にも変える。また「得」を「損」にしていることもあると言う。本来「得」をしたいが「損」で終わる事とは「損」なのだろう。


人の関係でも更に馬鹿正直ではないという事が良いとされるが、何でもかんでも正直であろうとすると誰かを不幸にしてしまう可能性があるなら、ご存知の通り「嘘も方便」として良い様であることは「得」なのだろう。

千差万別の所なのだろう。一方的な思考は、努力ない思考と言うこと、つまり「器」が無い者と言うことなのだ。


正直者になるにしても同じく孔子の言葉に、「君子は貞にして諒ならず」を頭の片隅においておきたいもの。

「貞にして諒ならず」の意味は、「正直者ではあるが馬鹿正直ではない」という解釈も本来「得」でありたいが「損」に至らない「旨味」なのだろう。


づっと「得」であり続ける事が幸福であるのであれば、「得」があるから、「損」があるから。の判断だけではない所、その物事が表裏一体であり、その物事を「旨味」に変え続けられる自身の「努力」が大事なのだろう。

他者の「得は」その者の「努力」であり、訪れる「器」があること。他者を嘆くものは、「努力しなくてはならない所」と言うことなのだ。


曇った眼鏡であればあるほど、曇りが多い日は続くのだろう。曇りが取れれば取れるほど、晴れる日は必ず来ることとすれば、”気づく眼”は養いたいものなのだ。


あるユダヤ人と同じだけお金に長けた種族が、大切にしている考えの一部にこうある。また昔より世界に長け、長年に渡り存在している事が根拠なのだろう。


益者が「得」であれば「益者となる3種類の友人。には、「正直な人」「誠実な人」「物知りな人」」
を、見抜く目も「得」として「益者」になれる人生において「旨味」のある道となるのだろうとふと思うのだ。

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