「型破りな人生」についてふと思う。

何事も「基礎」「基本」から、はじまりの根本を求められる事があるが、仕事や趣味においても出来る事を条件とした「型」なのだろう。


本来目的の為に、「基礎」を求められるが、これほどっと言って良いほど「型」を求められるお国柄も少なくないのだろう。見渡す限り「型」「定型」「基礎」なのだ。


特に、本来達成したい目的があり、目的に対して「基礎」が必要と思うが、そもそも何事も「基礎」が間違っていたらと、念頭に考えてしまう性分、自分で得た感覚だけが答えだと思えてしまうのだ。「基礎の管理は誰がしていて、いつも基礎が新しくあるか」これに尽きるのだろう。

目的において、念頭の回答を持ってして手にする知識や知恵ほど、役立つものはないと思えるのだ。世の中は「基本」とするものと、本来の「目的」がずれているものが多いから思えるのだろう。


世の中において「基礎」を修得する為には、時間・お金を裂いて習得する道があるが、そこは既得権利を無しに「基礎」を必要とするお国柄を考察してみる。


常識や規則、規律を「型」とするなら集団、統括において、その統制の為に、「型」は必要とされるとあるが、良く聞く「守」「破」「離」とは、「型」を基本とした、 千利休の訓をまとめた『利休道歌』にある。「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」から成りたっているとされるが。


大事なのが「”本を忘れるな”」とあるが、「本を忘るな」とある通り教えを破り離れたとしても、

ここが重要なのだ 「”根源の精神”を見失ってはならない」ということが重要であり、「基本の型」を会得しないままに、いきなり個性や独創性を求めるのはいわゆる「形無し」であると言う。


そもそも「型」や「基本」や「常識」に、「”根源とする精神”」がなければ意味合いがないのだろう。意識する意味合いが大事なのだ。

「基本の賞味期限」を考えれるのだろう。「根源とする精神」が未来永劫寄与し続けること、何千年も寄与してくれる「基礎」であるのか。

この「基礎」は、流行りと共に移り変わる「基礎」だなと思えるか、または同業界に存在する「基礎」が何通り存在しているにも関わらず、競合の「基礎」が改訂されているにも関わらず、習うべく「基礎」が改訂されない時など。

「基礎」から成長する大切さを物語っている故思えるのだろう。 


無着成恭は、「型がある人間が型を破ると『型破り』」と言い、人として1枚も何枚も底上げとなる成長過程なのだろう。また、「型がない人間が型を破ったら『形無し』」と語っており、これは十八代目中村勘三郎の座右の銘「型があるから型破り、型が無ければ形無し」としても知られる。

何故このような「型」にこだわる精神がそもそもこんなにこの国にあるのか。


それは他国にはない、「人としての根源 」 まさに「”本を忘れるな”」なのだろう。


日本において、他国にはない「型国家」なのだ。

「基礎」を求める精神とは、”精神の高い人種から創られたもの”を示し。それが古くからある「作法」として根付いているのだ。


戦前「作法」が当たり前の行動の基盤にあった時代、当たり前に学校で習う事が基礎だったとされている。これらの本などが何故か家にあるので読んで見ると面白いのだ。

そこにはこう書かれている。


「作法」まさに「”本を忘れるな”」と言う人間の根源なのだろう。

「人」であることを「表現する」なら、

その動作「人」は「自然のきまり(のり)」の中に生きている事から用いられている。

「万物にきまりを習い」更に「自然と人のきまり(のり)」を習う。

よって「人」は「禽獣」と差があり、その差として「人は優秀」であること、

その表現が「作法」である。と習うのだ。

「人」は考えらる動物として、「禽獣」との違いを自然の流れからくみ取り「人である優秀さ」を「作法」としてその動作を表現出来るものとされている。

他国にはない一つ一つが「人」としての「精神の高さ」を表現している「作法」において、この上ない話なのだ。

このような事を幼子から真似て育つ時代なのだ。例えば1つ、「寝て食べる事は禽獣であり」「座って食べる事、これ人なり」
考えれる生き物は、「作法」を要し「人」としてのアイデンティティを表現しているのだ。


ここまで「型」にこだわる精神の基盤があるだけに、戦国時代など、「打ち首」「介錯」の時ですら、その「型」に精神の高さを伺えるのだ。


その型とは、「”首の皮1枚” 残して切る事が条件」とされ、尚且つ、その首は、必ず”膝の上に綺麗に落ち乗っかり、胴体が首にもたれる形で止まらなければならい”とされていたのだ。


介錯する者ですら、その良し悪し審議され物議を交わすほど、その首切りの「型」として、「美の型」にこだわったそうなのだ。よってこの「綺麗な型」をこなす有名な介錯人には、昔から切られたいと志願する死刑者もいた程なのだ。


遥か昔より無数の「型」にもたれがちな人種であるが為に、「基本」「型」を思考として性格の一部になっている人も多いのだろう。

世の中において無数の「型」や自身の「型」とあるものや、当たり前の事としているもの事、また与えられている「型」や「基本」とするものほど、何より「型」の前に、本来の「根源」を知らなければならいのだろう。

「根源とする精神」なのだ。


その人生の「型」となっているもの、その先に「意図」とするものが間違っていない事が、何事も前提条件なのだろう。

「根源とする精神」があれば「基礎」も本来は常に管理されているものと思ってしまうが。


何故なら自身の「基本」とする考えである以上に、「”本を忘れるな”」と考えるなら、本来自身の「型」となっている「根源」ほど強力なものでなければならないのだろう。くれぐれも間違った「型にはまらないように」と思ってしまうからなのだ。


そう思うと囚われた外側にある無数の「型」や「基本」を無責任にも他人に求めたり、押し付けたりするのではなく、自身の「型」がどうであるかが大事であり、「根源とする精神」をこだわってみたいものなのだ。

また話は変わるが、今の北朝鮮の情勢において、韓国では従事している兵役は既に厳戒体制となっていたり、兵役を終えた国民すら召集令状次第とあったり、更に中国とインド、更に台湾情勢は既に始まっているが。

そう思うと島国と言え、中国、ロシア、アメリカにいつ何処で裏切りがあり、ひょんな理由で開戦に有ってもおかしくなって来ているのだろうか?

「型」の話だが、「型」を要いると「隙」もあること。「型」以外の「型破りな手」がいつも権威なのだろう。

骨抜き文化になっている以上、自然災害や首都に万が一あればと思うと、一国に隙があるなら、漬け込まれないようにと思えるが、このようや情勢の中、平和であり続けれる「型」でもあればと思うが…願うしかないのだろう。


日々においては、おもしろい事に現在においては、各分野「型破り」を求められている時代だけに、今後どうなっていくか見渡してみるのも、おもろしい話なのだろうとふと思えるのだ。

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