はじまりはいつも、「疑問」から始まるタイプだけに、自分の中で解決に至った「確信」だけが、いつもこの人生の第一歩として選択して来た事なのだとつくづく思えるのだ。
それは人生生まれたからには、誰しもがいつでも「自己実現」が満ち溢れた中でいつまでも幸せに包まれて居たいものだろう。その為に人より優位に浸り、優越感のある選択をして来たはずなのだが現実信じてきた道はどうだろうか?
自分は誰よりも「努力」や「我慢」を頑張って来た「だから報われるんだ」と自分より出来ない誰かと比べてしまったりしていないだろうか。
満たない満足を得ようとしてしまっている日々。 「この人生どうなってんだろう?」なんて思ってみたり。
人生晴れた日ばかりでは無いことだって知っている。また降りやまない雨などない事も知っている。
何故?これほどまでに雨が止まない時だってある事に驚かされる事が平常時なのだろう。
そんな時ほど、頑張って来た気持ちすら、自身も塞ぎ込まれ数十年も八方塞がりだなんて思った時は、人生が呪われているのかと疑いたくなる事もあったのだ。
人それぞれ住人十色の悩みの「課題」があるだけに。
かつてない「疑問」と向き合う時なんだって前向きに思い続けるしかなかったと今となって思えるのだ。
周りを観れば八方塞がりに魅せられ、自分が魅せられていては駄目なんだと、だから「自分がどう観るか」が大切なんだと気づかされる時もちゃんとあるんだと。
魅せらていては駄目なんなんだと、いつも自分が「どう観るか」かなのだ。
周りを観れば八方塞がりだが、ちゃんと「真上」を見れば「真上」は塞がれる事なく進めるようになっている事を自分だけが気づく事になっている時はちゃんと糧になっている事があって、この為なんだと思えるようになった時は嬉しかったのだ。
「どんな時も理由なく起こることはない」としっかり自覚出来きている事。
どの方向を向くかは、自分だけしか決めれない事なんだと、どんな時も思えるからで尚更なのだ。誰の人生も、いく通りある正解の一部に過ぎない事なんだと、正解ある人生しか無いんだと思えるからなのだろう。
問題や疑問は解っていても、変える事をしなかった。だから不満や不安や劣等感を見ている。いや魅せられていてはいけないのだろう。
もちろん人生は様々な要因によって、紆余屈折しながら失敗と言う図式に課せられてしまうが、そもそも人生において「失敗」ではなく何事も「軌道修正」なのだろう。失敗と言う言葉は使いたくないくらいバイアスが先だった先入観があるだけに、嫌いな言葉の一つなのだ。人生を1つの言葉に収まるような薄いものではないと、いつも思うからなのだろう。
理想の為、自己実現に必要なプロセスとして、何かあればいつもトライしてみる。
言わゆるステップ・アップのステップなのだろう。今ステップなんだと認識しているかどうか、ステップだけの響きだけなら楽しそうなのだが、今以上に跳ね上がるにはどうするか?どう生かすかなのだろう。
困難や不安を蹴り去るには、ステップするタイミングは大丈夫だろうか?
いつも、誰しもの人生がいく通りある正解の人生であり、その中をいかに自分が望む、豊かな理想に満ち溢れた人生にするか、その為に生きているのだろうと思えるからなのだ。
良い時も、また軌道修正の時もいつも上を向いて進める選択肢が少しでもあればと思い、この「和の輪 blog」を始めようと思ったところなのだ。
人生生きていれば色々ある事が平常時なら「思いもよらない事は人生の副産物」なのだろう。
良いことも悪いことも沢山して来た人生だからこそ、苦労も当たり前なのだろう。無駄に終わる事は何1つなく、糧となって清濁併せ呑む果てに、こうして観えて来るものが沢山あるから伝えたいこともあるのだ。
自分だけが誰よりも良くても、良くなっても、前に進まない時が幾度となくあり。相手がいて相手が良くなってくれたら、また自分が良くなる時がくる事も沢山経験して来たからなのだろう。
また「時間」だけが解決してくれる時だって幾らでもある、運命だったのかと思わされる事もある。これもいく通りある正解の一部なんだと人生を通して実感しているからなのだろう。
早く気づく事が出来たなら、知っていたら、人生の副産物に浸る気持ちより、より沢山の理想や自己実現に浸れる一度の人生にしたいものなのだろう。
そうなら満ちている世界の中で、どんなことも「限界」はあるのだろうか?
どんな時も「良い方向」に変えていける「力」としていつも晴れた方向が観えて来るような取り組みを通じて、」共有していきたいと思うからなのだ。
「いつも光が指す方」であるように、一度の人生を楽しいものに出来たらそれは最高ではなく「する」ことなのだ。
こんな事を考えた事はあるだろうか。
同じ自分として生まれ同じ人生を味わう事を。
それは「0%」の世界なのだ。
自分だけではなくこの境遇も些細な出会いも何もかもその「確率は0%」の世界と言うこと。
唯一無二の人生を、大切にする義務があるのだろう、生きているうちにその人生も自分自身も大切に出来るのは自分だけなのだからと思うのだ。
はじまりは、いつも今からどうあるか。その「在り方」が問われるのだろう。
「真上」はいつも進めるのだ。
5分もすればもう過去の気分なのだ、嫌なことは忘れただろうか。
今はもう未来なのだろう。1分先は楽しいことで満ち溢れたものであり、今また新たな気分で人生をはじめるなら、
いつも「はじまりはいつも光が指す方へ」進まなくてはいけないのだろうとふと思うのだ。
それでいて、はじまりの挨拶とします。

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