「逆境はいつも2度美味しい」

ウィルスが猛威を振るう中、「消費」が停滞しただけで
戦後数十年築き上げてきた資本主義があたかももろく崩れ欠けていく現実を間のあたりにする。
これが「逆境のはじまりなのだろう」

衣食住、経済、医療、壊れる事がないと思っていたと思うのだ。幸せな期間なのだ。
それだけもろいものをこれからより強固したものにしていかなければならないのだろう?
それだけに経済の大きな不況が訪れる時、
大きな流れの中には、大きな確かな間違いが沢山衣食住、経済、医療の中で浮彫になる時期なのだろう。

「窮地に現れる、本質」人も環境も、組織も、人間関係も全て、その逆境に立たされて、
はじめてその物事の「本質」が観えてくのだろう。

自分をどれだけ知っているだろうか?

それはフラクタルに個人単位でもその間違いを指摘され正される時期でもあると思うからなのだ。

自身いつも、「逆境はいつも2度美味しい」と思う様に意識している。

逆境が「2度も美味しい」思いをさしてくれるのだから、生きている旨味がそこにあるからなのだろう。

毎日同じ再燃思考で補える生活の中で、悩は個人の悩みに注視されがちですが、一遍して
ただこのような世界規模で「不安」や「心配」が募るとき程、大きな学びが用意されていることなのだろう。

人が主体としてこの世に生きている意味は、まぎれもなくその人生はいつも課題の中にあると言うことなのだろう。

世界の課題、国の課題、市や町の課題、個人の課題いつもフラクタルに影響を受け続けていること。

「生かされている法則」はそれだけ力がある。

東西南北、マルチタイムに出来事が起こることを創造することから始まる。
いつもその流れを読まなくてはならない。読む事は古来より君子たるもの愚かな言動として書物に書かれてきたが、
どうだろうか?
本来「読むべきもの」を読み間違えたり、改善すべきものの為に流れを「読む」ことが出来なければ、
「読んだとして」結果にもつながらないことが、その理に叶った文言なのだろう。「何を読むべきか?」

昨今物質的価値観に枯渇しそうな生き方の原因、それは本来生かされている人としてのマインドの限界を知らされているようなことなのだろう。

本来、この日本と言う国の生き方に沿った、身体、精神、そして生まれて来た意味が備わっているはずなのだが、「根なし草」として沼地ただ彷徨うような
生き方では元も子もなく「不安」「心配」または「喜び少なき人生」の道を歩んでしまうのだろう。

迷いや不安、心配が多い時ほど、「原点復帰」または、それ以上に「引き戻される」だけの学びがいつもあるのだろう。

それは「逆境は2度美味しい」と言う根底に、一度の過ちや失敗や挫折、または不安や心配の種が尽きない時より、
更に「改めた出来事を通じて学んだこと・経験したこと・心に残ったこと」を持ってして、再出発した時、同じ道をより喜びに満ちた道を再度歩めるからなのだ。
その時は、前の自身より更に成長した自分となっていることに気づかされる。

全を糧にできる機会こそ「窮地に現れる、本質」を磨き、更に人として成長さしてくれる「生かされている法則」なのだろう。
ある年齢になった時、更に人として「成長」を遂げ続ける時、何が成長を促してくれるのだろうか。
プロテインや教科書や良書を読むことだけだろうか。
これほどまでに「逆境はいつも2度美味しい」と思える出来事はないのだろう。

だからこそ考えることが、いつも大事なのだ。

昔チュニジアの友達から地震が続いている時、天災や地震が多い国には、
いつも私利私欲に満ちた知らせだと言われ事があったが、自分たちは歴史と法則から
その様な出来事を学されているのだ、その時言っていた事は、「ノアの大洪水」「ポンペイ噴火」など起こった時、
その背景に私利私欲に満ちた国の限界がいつもあったことを戒めとして教えられているのだと。

「生かされている学び」とは、実に神秘的なことであり、人の「起源」を知る必要があるが故に、今日の大学が出来た「起源」でもあるとされているのだ。

「生きる人間」は、マインドの限界により、スピリットの離脱から起こる不可思議な効力を良くも悪くも放つと言うことだ。

多大なる「教え」が各国存在し、各国宗教化し「独自の教え」として今日まで存在し続けている。

どの「教え」の根本は「幸せや喜び多き生き方について」人間としての在り方をひも解いているのだろう。

今日「幸せになれる」教えを学ぶ機会が無い中、幸せになれる〇〇と言う言葉がSNSやYoutubeなので「教え」になっているのだ。

それでいて「不適職」や「入院」や「倒産」そして「見直し」「改善」「改める」「物事のリセット」と人生の節々で現れる「不幸の副産物」とは、あたかもその者が更に幸せや喜び多き人生へ改められる機会なのだろう。

本当の幸せを他人と比べるだろうか?不幸は他人と比べるだろうか?物質的価値観は他人と比べるだろう。比べる以上に大切なこと、

それは不幸や逆境を見逃すことなのだ。見逃すと言う事は、不幸や逆境に居座ると言う「選択」をしたと言うことなのだろう。

なら、不幸や逆境とどう向きあえば良いか?


いつも思うが、物質的価値観を他者と比べる事で、全知全能の喜びが手にはいるだろうか?只々そう思わないようにしているのだ。

ただいつも「逆境はいつも2度美味しい」と思う為に、まず。

「間違いを知ろうとすること。」認めること。そこに他人の存在は何1つ存在しないこと。幸せな時から一遍して不幸になった時、自分の何がいけないのだろうか?と知ること。
「間違いを治そうと思うこと。」間違いを知り、間違いを治すこと。どのように幸せだったか、どのような幸せになりたいか「方法」と向き合うこと。

正そうと思いを巡らし向き合た時、必然に答えは用意されるのだ。 考える事が重要なのだ。

「失敗すれば後が無い」とか、「失敗は人生の終わりだ。」とか「失敗に再起は無い」とか。「失敗すればチャンスが無い」とは根の葉もない戯言なのだろう。

本来日本は古来より、再起を起こし偉業を達する言われが日本人の起源にしっかり記述されていることなのだ。
古事記や日本書紀に記述されているように、「過ち」「失敗」を起こす我々の祖「神」が「改め」「再起」に目覚め偉業・覇業を起こす、神話が日本人の生き方として我々に残した「教え」なのだろう。
「神」自らの恥を語り、偉業・覇業を成す生き様を後世に残す意味をしっかり「日本人である我々が逆境に困らないように、残してくれた生き方なのだろう」

故に現代では、日本神話は日本人は習わないのだ、面白いことに、アメリカ人が今日授業で日本神話を授業で習うと言うこと。

故に何も「失敗」をさせないと言うことは、人として「成長させない」と言うことなのだろう。

この日本の言う国で生まれ、その身体、精神の喜びや幸せは、いつも自身の原点に戻ることで、更に成長した自身になって逆境を乗り越えられる誇り高い日本人でいれることなのだろう。

万人に訪れる「逆境」の在り方とは、どんな時も「幸せになれる第一歩」と言うことなのだろうとふと思うのだ。

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