「誹謗中傷に負けない日本人」についてふと思う。

過去2020年5月25日に書き留めていた、記事をピックアップしています。


ネット環境との距離感を伺える出来事なのだ。

実に訃報な出来事がニュースになっていた。誹謗中傷による「自殺」が、現実化するとますます世代ごとにネット環境と心境の境目が無くなって来たのだなと思える。

これは子供を持つ同世代の子供の環境を見ていても思えることなのだ。言葉を直接相手に伝えるツールとしてネット環境から交友関係が始まることを耳にして、補助的な便利ツールでは無く、身体の一部として認識されてることなのだろう。

機器としての使用目的だけでなく、身心が住む世界となっているのだなと。

「現実世界」だけでなく「仮想空間」での「言葉・文字」が発する「力」によって人の命も殺めている現実に、現実社会と同等の法律「名誉棄損」や「迷惑行為」「侮辱罪」に相当するのではと思えるが、れっきとした犯罪なのだろう。

他人の断りは警告であり、他者の利己的な抑圧が伴えば、犯罪に切り替わる。

人が他人間において不利益な批判を受ける「情念」は人の社会上の地位または価値の損害なのだろう。

甘やかしや、生ぬるい環境を与えないと自己欺瞞に至る思考も利己的で無利益な情念なのだろう。

他人の「情念」不快なことは、考えるに値しないもの。自分がまた「情念」について考えなくてはならない状態は無価値と哲学者アラン(1868-1951)は言うように。

不快を与えようと踏み混だ行為とは、もはや不要不可欠な犯罪なのだ。

ここまで時代背景に見合った「法的な効力」などで「保護」してかなくてはならない精神的な時代背景が来たのだろう。

アンチの存在や思考とは、ネット環境の「0.47%」の人が行っているとされている。このような人は、アンチコメントの場を、あっちこっちで探してはアンチコメントをしている人種とされるのだ。

ネット環境を彷徨う特定数の同じアンチコメント者は、全体の0.47%であり

気にするだけ価値がない者と認識する方が良いとされている。


ネット社会での「アンチコメント」の問題はネット社会の進展と共に世界共通の問題として課題とされていが。

コミニケション能力としてアンチなコメントはそもそも必要なのか?

自己欺瞞の世界だけに被害者と接点はそもそも何もないのだろう。

交友関係内の「イジメ」として集団的な環境で過ちとして繰り広げられ、「自殺」に至る事は昔より残念ながら現在も存在するが、ネット環境と言う中で被害者と接点のない「言葉・文字」の暴言による誹謗中傷の被害は実にどちらも、その心境に悲嘆ざるおえない。


どんなけ人生に困ったとしてもその答えを「死」としていけないのだろう。

日本人は特に「余裕」を表現しない人種なのだろう。「余裕」の表現の仕方を知っているのだろか?

「余裕」とは戦後、物質社会の発展の為に削られたものなのだろとすると。

かつて戦時中ガチガチの世界と思うが、実はアメリカの捕虜を輸送している時でも日本軍だけなのだろう。実アメリカン人捕虜を一緒に近辺の海辺なので海水浴をしながら捕虜の輸送を行なっていたこと。

捕虜でも丁重に扱っていた人種なのだ。人として世界に「仁や義を重んじれる、柔軟な精神」を培っていたのだ。

無理にアンチの様に個人的に勝手に偏った思考を振りまわしているのか。逆に不思議に思うことが健全な精神なのだろう。

危機的な時や困った時、怒った時にこそ、自分と言う人間のとして「余裕」を相手に示す行為がある、それが「ユーモア」なのだ。 

アンチコメントはそもそもユーモアではないのだ。この「ユーモア」が示せない環境ほど、「良い・悪い」「善・悪」の「2極化」だけの「解釈」しか出来なく無くなってしまうのだろう。


特にこれからの時代、またはこらからの世代にとって「理解・解釈」が必要となる事として、ネット環境では、「荒れることが面白いとしている集団がいること。」また「収益目的で必然と行っている環境もあること。」

「加害者の心の中和として偏見を記述したい者がいること。」

「ただ波気取りで、他者や空気間になぞて行うもの。」

などなど、その見えない世界で「アンチを望む者」を理解しなくてはいけないのだろう。

ただただ「綺麗な言葉」を使えない、または軽んじた小言を発信する精神状態の者とすれば腑に落ちるものなのだろう。

ネット環境では狭い世界なのだ。ネットは膨大な可能性を秘めて創られたのに、用いるものは現実社会以下の思考を披露する場になっているもだろう。

批判や偏見を披露する場ではないと願いものだ。

ネット世界の「アンチな発信者」は「危険人物」として、その扱いまたはその発信者の心境やコメントの不要性や環境の取り扱いとして、または第三を通じて俯瞰して理解する機会が必要なのだろう。

特に今の現代の子供には、そのアンチとした特定の不審者がいることを、俯瞰して伝え、理解してもなわなくてはいけないのだろう。

”「理解・解釈」は、精神に「余裕」を生むこと。”

目に見えない人の「言葉・文字」だけの世界のコメントからしっかり「保護する」ことなのだろう。


ネット環境に全身全霊身心、身を置く期間が長い時代だけに、または生まれた時からネット環境で育った世代にとっては特に「心置き所」として「心」が存在する世界となってしまっていること。


日本が戦後世界でNo1を更新し続けているものそれは「自殺者」なのだ。

守るべきものから、守れているようでその環境とは実に飾られたものが多い事も現実なのだ。

GDPの上昇と幸福度の相関性が無いように、その事実実態を知って欲しいものだ。

日本人は特にネガティブ遺伝子が実に約60%も超えているとされ、その遺伝子の影響は人生において約64%も感情や性格に影響を与えているだけに、「保護するため」にも日頃の環境や特に「言葉」には特に気を配りたい所なのだろう。

遺伝的要素は、知能(IQ)の基盤になるもので、年を重ねていくと学問・学力の低下に伴い、著しくその知能(IQ)が現れるからなのだ。性格になるのだ。

ネガティブ因子は日頃から「意識」が、ネガティブの原因に傾いている事とされている。例えば、笑顔を気にするより、不機嫌や不快や否定的な出来事に敏感にバイアス掛かっているとされ、”「認識」を変える”ことにより後天的に「解釈」まで変わるとされている。

特に目にするものが大切とされている。割愛。

数百年前にシェイクスピアが言った言葉で、”ものの善し悪しは考え方ひとつで決まる”という言葉があり。

わたしたちには、毎日良いことや悪いことが起こっているが、それらをどう「解釈」するかが大切なのでだろう。

特に日本人の身心を「負」に落ちないように日本人に見合った環境の整え方となれば、実にその日本人に見合った心境を回復させるものとなっている。

実に理に適っている行ないとして「真・善・美」とは実に日頃から身心の「リセット」には適切なのだろう。

真善美それと神意から人は離れれば離れる程、昔より人は暴走するものとされる。


またそれ以上に世界と比べ日本人だけが作れるものそれは”「精神の世界」”なのだ。

「精神の世界が無い」または「精神の世界」が「負」ではどうにもこうにも苦しまみれの世界にまた傾いてしまうのだろう。それを回避した言語で表現できるものが「日本語」なのだろう。

美しい言葉、大和言葉や古語など言語の表現力とは、やはり相手に伝わる力がある。世界には存在しない唯一無二のその基盤となるものが「日本の言葉」なのだ。

この日本の言葉ほど「力」があるものとなされ、世界に作れない「精神の世界」を創造できること。


今後世界のネット社会やシンギュラリティの進展が起こる中、更に世界の人間は「心」の無い時代を往来するのであれば、世界にない日本人のみが世界発信できる「精神世界の在り方」を世界に重んじなければならない時代が必ずくるのだろう。

こうした誹謗中傷の改善と共に、世界や環境に発信出来るのであれば「言葉・言霊」の「力」の在り方、日頃の「言葉」について再度認識する日もくるのだろう。

環境の為、自分の為、何の為に「言葉」を考えないといけないのか?

考えると深く考察出来ることだろう。「言葉・言霊」で人が動き、心や精神世界までも創れるのであれば、”これからの為に”これほどまでに大切に扱わなくてはいけないものとふと思うことなのだ。

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